第108話 糧にするしかない
文字数 1,691文字
聞けた話の内容は佑くんから聞いたものと大きな違いはなかった。子どもたちが自立するのを待って、それから動こうとずいぶん前から決めていた、と。
「離婚はしないかな。手続きが面倒だし。お互い再婚したい相手がいるわけでもないから。ま、現れたらその時は、って感じ。当面は別居ってことになるわね。東京にいる長女が一緒に住んでいいって言ってくれてるの。適当に仕事探して、旅行でもしながら気楽に暮らすわ」
「ヴァンドゥーズは……完全に辞めるんですか」
そうだろうとわかっていても確認せずにいられなかった。ゆうこさんはこくり、と頷いて申し訳なさそうに微笑んだ。
「もう充分よ。私の人生の半分近くを捧げてきたの。自分の夢も、やりたいことも、全部夫の『それ』にすり替えて。若い頃はそれが幸せだったけど、いつしか義務になって、そしてストレスになっていった」
本当の自分の色を取り戻したくなった、とゆうこさんは話した。
「春に南美ちゃんが辞めて海外に発ったでしょう? 『世界を見て来る』って。それで一気に羨ましくなっちゃったのよね」
海外とまでは言わないにしても、あのお店から出たかった、と。
「あんみつちゃんははじめからヴァンドゥーズだった子だから。きっと大丈夫。私は結婚してヴァンドゥーズになった身だから」
パティシエの夫を持つ妻、という立場。同じようで、私たちは違うのだという。
「真由にも……本当はパティシエなんかと絶対に結ばれてほしくないんだけどね。それでもあの子は、私に憧れてしまってるから。もう、あんみつちゃんといい、真由といい。私がそんなに幸せそうに見えた? ただ日々の業務をこなしてただけなのに」
パティシエ
「ヴァンドゥーズのゆうこさんは、素敵でしたよ。嫌だったなんて、今でも信じられないです」
なんだろう。もともとそうだけど妊娠してから涙腺がより弱い。溢れ出そうとするものを必死にこらえていた。
私が見てきた凄腕ヴァンドゥーズのゆうこさんは、幻だったのかな。
「あんみつちゃん」
ゆうこさんはそっと私の肩に触れて、微笑んだ。
「辞めてもあなたのことは、娘同然と思ってるからね」
もうこらえ切れなくなって、その丸っこい肩に寄りかかってわんわん泣いてしまった。
「元気な赤ちゃん産んでね」
私の目標だった人はそう言い残して、どこかスッキリとした顔で手を振り我が家を去っていった。
「よかったんじゃない? 嫌々続けるより」
らしいと言えばらしい反応。そういえば彼はそういう考えの人だった。
──耐えられない奴は辞める。それだけだ。
本日の沢口家の晩ごはんは和食です。なんだかお魚が恋しい。渋めの好みの赤ちゃんなのかな。
「でも寂しいよ」
「そ? 二号店にいるんだし最近は前ほど関わりなかったじゃん」
兼定くんはお魚の小骨を取るのが意外と下手。繊細な仕事は得意なのに不思議だ。
「それでも目標だったし……」
「はあ? いつの話」
「ええ?」
いつって……。いつだろう。
「言っとくけどおまえもうゆうこさんなんか軽く超えたとこにいると思うよ」
「な」
なにを言う!?
「身内の贔屓目なしで。手話はほぼできるし英会話も割とできるようになったんしょ。フランス語も製菓用語と日常会話はできてるし、ラッピングの腕も講師並。色彩検定も持ってて店のレイアウトもプロ顔負け。プライスやポップ書かせてもかなり完成度高いし、ついでにSNS系の発信もマメで強い」
ここまでのヴァンドゥーズってそういないよ。とまで言われていよいよ反応ができない。
「今日も楠木 さんがすげえ褒めてたよ。『あんみつさんみたいになりたい』って」
りんごちゃんが……。
「後輩があんまいなかったから自覚ないのかもしんないけど、おまえはもうとっくに〈目標にされる側〉だってこと」
「私が……目標に」
「そう。だからゆうこさんが辞めたくらいで狼狽 えんなよ。それも糧にして成長するしかないっしょ。残される側は」
言うと、ぐい、とお茶を飲み干して「ごちそーさんでした」とゲップをした。
唖然と見つめていると「洗い物俺がするから早く食い終わって」と言われて慌てて箸を進めた。
「離婚はしないかな。手続きが面倒だし。お互い再婚したい相手がいるわけでもないから。ま、現れたらその時は、って感じ。当面は別居ってことになるわね。東京にいる長女が一緒に住んでいいって言ってくれてるの。適当に仕事探して、旅行でもしながら気楽に暮らすわ」
「ヴァンドゥーズは……完全に辞めるんですか」
そうだろうとわかっていても確認せずにいられなかった。ゆうこさんはこくり、と頷いて申し訳なさそうに微笑んだ。
「もう充分よ。私の人生の半分近くを捧げてきたの。自分の夢も、やりたいことも、全部夫の『それ』にすり替えて。若い頃はそれが幸せだったけど、いつしか義務になって、そしてストレスになっていった」
本当の自分の色を取り戻したくなった、とゆうこさんは話した。
「春に南美ちゃんが辞めて海外に発ったでしょう? 『世界を見て来る』って。それで一気に羨ましくなっちゃったのよね」
海外とまでは言わないにしても、あのお店から出たかった、と。
「あんみつちゃんははじめからヴァンドゥーズだった子だから。きっと大丈夫。私は結婚してヴァンドゥーズになった身だから」
パティシエの夫を持つ妻、という立場。同じようで、私たちは違うのだという。
「真由にも……本当はパティシエなんかと絶対に結ばれてほしくないんだけどね。それでもあの子は、私に憧れてしまってるから。もう、あんみつちゃんといい、真由といい。私がそんなに幸せそうに見えた? ただ日々の業務をこなしてただけなのに」
パティシエ
なんか
と、ですか……。「ヴァンドゥーズのゆうこさんは、素敵でしたよ。嫌だったなんて、今でも信じられないです」
なんだろう。もともとそうだけど妊娠してから涙腺がより弱い。溢れ出そうとするものを必死にこらえていた。
私が見てきた凄腕ヴァンドゥーズのゆうこさんは、幻だったのかな。
「あんみつちゃん」
ゆうこさんはそっと私の肩に触れて、微笑んだ。
「辞めてもあなたのことは、娘同然と思ってるからね」
もうこらえ切れなくなって、その丸っこい肩に寄りかかってわんわん泣いてしまった。
「元気な赤ちゃん産んでね」
私の目標だった人はそう言い残して、どこかスッキリとした顔で手を振り我が家を去っていった。
「よかったんじゃない? 嫌々続けるより」
らしいと言えばらしい反応。そういえば彼はそういう考えの人だった。
──耐えられない奴は辞める。それだけだ。
本日の沢口家の晩ごはんは和食です。なんだかお魚が恋しい。渋めの好みの赤ちゃんなのかな。
「でも寂しいよ」
「そ? 二号店にいるんだし最近は前ほど関わりなかったじゃん」
兼定くんはお魚の小骨を取るのが意外と下手。繊細な仕事は得意なのに不思議だ。
「それでも目標だったし……」
「はあ? いつの話」
「ええ?」
いつって……。いつだろう。
「言っとくけどおまえもうゆうこさんなんか軽く超えたとこにいると思うよ」
「な」
なにを言う!?
「身内の贔屓目なしで。手話はほぼできるし英会話も割とできるようになったんしょ。フランス語も製菓用語と日常会話はできてるし、ラッピングの腕も講師並。色彩検定も持ってて店のレイアウトもプロ顔負け。プライスやポップ書かせてもかなり完成度高いし、ついでにSNS系の発信もマメで強い」
ここまでのヴァンドゥーズってそういないよ。とまで言われていよいよ反応ができない。
「今日も
りんごちゃんが……。
「後輩があんまいなかったから自覚ないのかもしんないけど、おまえはもうとっくに〈目標にされる側〉だってこと」
「私が……目標に」
「そう。だからゆうこさんが辞めたくらいで
言うと、ぐい、とお茶を飲み干して「ごちそーさんでした」とゲップをした。
唖然と見つめていると「洗い物俺がするから早く食い終わって」と言われて慌てて箸を進めた。