第106話 私の代わりに

文字数 1,288文字

『ああ、あんみつちゃん。体調どう?』

 電話口の相手はのん気にそんなことを言ってきた。もう、ゆうこさん。そんなことよりですよ。

「まあまあです。食べられてるので身体は大丈夫で……それより」

 なんで真由ちゃんじゃなくて、りんごちゃんなのかが知りたいのです。

「……りんごちゃんが嫌だとか、そういうことじゃないんです。けど真由ちゃん、なにかあったのかなって」

 すると『ああ……』と少し間を置いてからゆうこさんは『じつはね』と打ち明けてくれた。


『辞めることになったのよね、私が』


 一瞬なにを言われたのかわからなかった。こちらの理解が及ぶのを待たずに話は進む。

『だから真由には本店に残ってもらうことにしたわけ。私の代わりに』

 私の代わりに。

 ゆうこさんの言葉が頭の中に響く。

「……え、待ってください」

 どうして……? という私の疑問は『あ、ごめん、そろそろ』と強引に打ち切られてしまった。

『新人だけどりんごちゃん、とってもいい子だから。あんみつちゃんが鍛えたらきっとすぐ戦力になるわ』

 励ましの言葉は右から左に流れていく。

 辞める? ゆうこさんが?

 なんで? 

 通話が切れてからもしばらくそのまま動けなかった。



「ああ、そういうこと」

 予想通り、といえばそうだけど。兼定くんの反応はたったのそれだけだった。

「ね、なんで辞めるのかな。どこか悪いとか? 病気? じゃないよね。ならご両親の介護とか? そのくらいの年代だよね? でもそれならそうだって言ってくれるはずか。うーん。なんだろ、まさか転職? 今更? っていうか夫婦仲はどうなんだろ……え、まさか離婚とかないよね!?
「あんみつ」

 遮られて「んん」と唸った。

「おまえひとの心配してる場合? 新人教育なんて今までまともにやったことないっしょ。しかもただでさえ体調悪いのに」

 たしかに。その通り。

「でもゆうこさんは大切な存在だもん……」

 私にとっての、不動の存在。ヴァンドゥーズの原点で、お手本で、第二のお母さんとすら思える存在なんだから。


 だけどたしかに新人教育というのは思っていた以上にエネルギーを使うものだった。

「ずびばぜん……」

「泣かないでってば」

 一生懸命なのは伝わってくるんだけど、なかなか身についてくれない。

「ふう……」

 本当は「はー」とつきたいため息を相手に察されにくくアレンジする術を身につけた。

 洞察力高すぎの店長くんは騙されてはくれないみたいだけど。

「今日早上がりして。あんみつ」

「えっ、なんで」

「疲れてるの見てわかる。二時で上がって。家でゆっくり昼寝でもしな」

「でもりんごちゃんは……」

 スパルタ教育の兼定くんではあの子の心なんか簡単に折っちゃうんじゃないかしら、と思いますけど。

「大丈夫。俺だって佑と過ごして教えることにはかなり慣れたから」

 むう。たしかにそうか。パワハラまがいの正論で私をイジめていた『ヴァンドゥール(男性販売員)の小野寺さん』はもう過去ってわけですか。

「わかりました。じゃあ……お言葉に甘えて」

 そうして約束の二時を迎え、「ひえええ」と小鹿のように震えるりんごちゃんを兼定くんにお願いして退勤した。

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