第111話 注射前の子

文字数 1,134文字

 じめじめした梅雨を越えて、季節はがつんと暑い夏を迎えておりました。

 我が〈シャンティ・フレーズ〉二号店は、大きなトラブルもなく順調に営業しています。

 (たすく)くんは失敗も兼定くんとの言い合いもずいぶん減ったし、新人だったりんごちゃんも徐々に業務に慣れはじめ、二人とも今や頼もしい戦力。

 安定期目前となった私のお腹はだんだんと大きくなっていて、お客様に「あら!」と微笑んでいただくことも。

 そして佑くんが春から頑張っている製菓衛生師の試験勉強もそろそろ佳境を迎……ん。

「は? なに言ってんの」

「だから。受けんのやめようかなって」

 もう、どうしてそうなるの!?

 閉店時刻を過ぎてりんごちゃんは先に帰宅、私も帰り支度をしていたところだった。

「やめるったって、もう受験料も払って受験票も届いてんじゃないの」

「ああ、それ。お金返ってこないっすかね。参ったな」
「いや、受ければいいっしょ」
「ええー?」

「ね、なんでそう思ったの?」
 たまらず私が訊ねると佑くんは「もともと試験とか蕁麻疹(じんましん)出るくらい嫌いだし」と注射前の子どもみたいなことを言う。

「でもここまで毎日頑張ってきたじゃん。誰かになにか言われたとか?」

 更に訊ねると「いや……」とわかりやすく目を逸らせた。これは。

「もしかして、真由ちゃんが関係してる?」

 女の勘、というものが私にもある。

「もうよくわかんないっす、俺にも」

 佑くんは投げやりにそう言うと「とにかくやる意味なくなったんで。勉強会ももういいです」と言って店を出ていってしまった。

「は、なにあいつ」
「別れたとか、そういうことなのかな」
「はあ?」

 思い返してみればたしかに彼のやる気は最初から不自然だった。

 ──俺今年は本気で受かりたいんです。
 ──いろいろ事情があるんすよ。

「真由ちゃんって、お母さんのゆうこさんに憧れてたわけでしょ? それが……こんなことになって、考えが変わったとか、そういうことかも」

「なに。どういうこと」

「つまり、佑くんが最初にやる気満々だったのも、今更やる気なくしたのも、真由ちゃんがそうさせてるってこと」

 ──パティシエ

と結ばれてほしくない。

 もし真由ちゃんが今もゆうこさんに影響されているとしたら、それはつまり……。

 佑くんと別れるつもりか、佑くんにパティシエを辞めさせるつもりかのどちらか、ということ。

 どうしよう。放っておいていい? 兼定くんはきっと「相談されたわけでもないのに首突っ込むな」って言うだろう。だけど……。

『ゴー、あんみつ!』する?

「あの……私、ちょっと寄り道してから帰ってもいい?」

 控えめに訊ねると呆れた目で見下ろされた。そうだよね、反対するよね、そう思っていると、ため息とともに意外な言葉が降ってきた。

「俺も行く」

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