第117話 いつまで働ける?
文字数 1,710文字
興奮する私たちに対して、兼定くんは「ああ」と驚きもせず答える。え、どういうこと?
「朝からいるよ。朝から、つか夜から? 俺が出勤したら鍵が開いてて佑がいてさ。休憩室でずっとひとりで勉強してた。さっき覗いたら力尽きてたけどね」
試験には間に合うように起こすから心配しないで、と。
「ここまで来たら足掻いても変わんないよって言ったんだけど。『やれること全部やりたい』って。……真由さん、またなんか言ったの?」
真由ちゃんを見ると瞳を大きく開いて首を横にふるふると振っていた。
「言ってないです。言ってないし、逃げたとばっかり思ってた」
すると兼定くんは、ふ、と目を細めて「もし受かったらさ」と真由ちゃんに言う。
「あんまバカバカ言わないでやってよね」
そんな、わけで────数ヵ月後。
発表された結果は。
「合格しましたあああああっ!」
「おー、おめでとうー!」
「おめでとうございます! ……で、なんの試験ですか?」
今更そんなことを言うのはもちろんりんごちゃん。がく、とずっこけそうになった。
「小野寺さん。……や。小野寺店長。ありがとうございました」
コック帽を取って頭を下げる姿が、どこか野球部員みたいだった。
「べつに無理に『店長』にしなくてもいいよ」
素直じゃない先輩に佑くんは笑った。
「俺、頑張りますよ。小野寺さんみたいにはなかなかなれないだろうけど、ちょっとでも近づけるように。つか、一緒に仕事させてもらえてるうちに、いっぱい吸収さしてもらわないと、って思います」
「ふうん」
「ところで美容院どこ行ってます? 俺もそこ行きたい。担当は? 男すか、女すか。普段着は? どこで買ってます?」
……え。ちょっと、なんでそんな話になるのさ!?
「『形から入る』って言うじゃないすか」
「ああ、バカはマシにはならなかったか」
兼定くんは残念そうにそう言うと、ゆらりと壁に掛けたホワイトボードの予定表を見つつこんな返しをした。
「……じゃあまず、カスタードの仕込み。その後シュー生地とスポンジ、いつもの量で計量しといて。タルト台は二台増やして焼くから計算して計量して。あとモンブラン系そろそろ旬だから今日から多めに出すよ。渋皮と和栗それぞれのマロンクリームの仕込み二割増しの計算で準備よろしく。それと早生 ミカンの発注できてんだっけ? 確認しといて。あれ一箱だと多すぎるから半量で頼んでほしいんだよね。ついでにリンゴも頼んどいてくれる? 紅玉 で一箱。焼き菓子はマドレーヌとフィナンシェ。今日はリーフパイも補充するから天板と溶き卵の準備も忘れなく。それから──」
「う……うわうわうわ、待って。どういうパワハラすかこれ!」
「ははん。製菓衛生師になったんしょ? ならこのくらい軽いよね」
「く……やっぱ本店に帰るううう」
うふふ。朝から仲良いな。と微笑ましく厨房を覗いていた。
「ふう……」
お腹が重い。
この前の健診で赤ちゃんは女の子の可能性が高いと言われた。
──女だったら『イチゴ』。
イチゴちゃん、か。平仮名? それとも漢字でもかわいいな。
ジクン……。
「痛たた……」
「わ、あんみつさん大丈夫ですか?」
「あ、うん。……少し横になれば大丈夫だから。ごめんりんごちゃん、少しだけ休憩室行くね」
性別を聞いたのと同じ時に、じつはこんな注意をされていた。
──早産傾向があります。なるべく安静に。
──ひどくなれば入院になりますよ。
兼定くんには……言ってない。言ったらたぶん、すぐに仕事を休むよう言われてしまうだろうから。
それと気になることは他にもあって。
「え、予定日クリスマス!?」
「うん。参ったよねえ」
あくまで目安だからね、と自分に言い聞かせてきたものの、実際に迫ってくると不安は付きまとう。
いつまで働ける?
できることなら出産直前までお店に立ちたい。だけどさすがにクリスマスの忙しさには耐えられないだろう。まさかお店のみんなに迷惑を掛けることになってもいけない。
だとしたら、いずれどこかで産休の線を引かないといけない。
そしてその後のことも。
「求人募集、かけてもらわなくちゃな……」
休憩室の小窓から見える青空は、もうすっかり秋の空だった。
「朝からいるよ。朝から、つか夜から? 俺が出勤したら鍵が開いてて佑がいてさ。休憩室でずっとひとりで勉強してた。さっき覗いたら力尽きてたけどね」
試験には間に合うように起こすから心配しないで、と。
「ここまで来たら足掻いても変わんないよって言ったんだけど。『やれること全部やりたい』って。……真由さん、またなんか言ったの?」
真由ちゃんを見ると瞳を大きく開いて首を横にふるふると振っていた。
「言ってないです。言ってないし、逃げたとばっかり思ってた」
すると兼定くんは、ふ、と目を細めて「もし受かったらさ」と真由ちゃんに言う。
「あんまバカバカ言わないでやってよね」
そんな、わけで────数ヵ月後。
発表された結果は。
「合格しましたあああああっ!」
「おー、おめでとうー!」
「おめでとうございます! ……で、なんの試験ですか?」
今更そんなことを言うのはもちろんりんごちゃん。がく、とずっこけそうになった。
「小野寺さん。……や。小野寺店長。ありがとうございました」
コック帽を取って頭を下げる姿が、どこか野球部員みたいだった。
「べつに無理に『店長』にしなくてもいいよ」
素直じゃない先輩に佑くんは笑った。
「俺、頑張りますよ。小野寺さんみたいにはなかなかなれないだろうけど、ちょっとでも近づけるように。つか、一緒に仕事させてもらえてるうちに、いっぱい吸収さしてもらわないと、って思います」
「ふうん」
「ところで美容院どこ行ってます? 俺もそこ行きたい。担当は? 男すか、女すか。普段着は? どこで買ってます?」
……え。ちょっと、なんでそんな話になるのさ!?
「『形から入る』って言うじゃないすか」
「ああ、バカはマシにはならなかったか」
兼定くんは残念そうにそう言うと、ゆらりと壁に掛けたホワイトボードの予定表を見つつこんな返しをした。
「……じゃあまず、カスタードの仕込み。その後シュー生地とスポンジ、いつもの量で計量しといて。タルト台は二台増やして焼くから計算して計量して。あとモンブラン系そろそろ旬だから今日から多めに出すよ。渋皮と和栗それぞれのマロンクリームの仕込み二割増しの計算で準備よろしく。それと
「う……うわうわうわ、待って。どういうパワハラすかこれ!」
「ははん。製菓衛生師になったんしょ? ならこのくらい軽いよね」
「く……やっぱ本店に帰るううう」
うふふ。朝から仲良いな。と微笑ましく厨房を覗いていた。
「ふう……」
お腹が重い。
この前の健診で赤ちゃんは女の子の可能性が高いと言われた。
──女だったら『イチゴ』。
イチゴちゃん、か。平仮名? それとも漢字でもかわいいな。
ジクン……。
「痛たた……」
「わ、あんみつさん大丈夫ですか?」
「あ、うん。……少し横になれば大丈夫だから。ごめんりんごちゃん、少しだけ休憩室行くね」
性別を聞いたのと同じ時に、じつはこんな注意をされていた。
──早産傾向があります。なるべく安静に。
──ひどくなれば入院になりますよ。
兼定くんには……言ってない。言ったらたぶん、すぐに仕事を休むよう言われてしまうだろうから。
それと気になることは他にもあって。
「え、予定日クリスマス!?」
「うん。参ったよねえ」
あくまで目安だからね、と自分に言い聞かせてきたものの、実際に迫ってくると不安は付きまとう。
いつまで働ける?
できることなら出産直前までお店に立ちたい。だけどさすがにクリスマスの忙しさには耐えられないだろう。まさかお店のみんなに迷惑を掛けることになってもいけない。
だとしたら、いずれどこかで産休の線を引かないといけない。
そしてその後のことも。
「求人募集、かけてもらわなくちゃな……」
休憩室の小窓から見える青空は、もうすっかり秋の空だった。