第113話 腹立たしい案件

文字数 1,560文字

「一緒に住み始めたのは年明けからで」

 真由ちゃんは照れる様子もなく淡々とそう説明した。

 いつかの小野寺邸を彷彿とさせる小さなアパート。狭い部屋の中心に置かれたローテーブルを四人で囲んだ。

「最初は女友達とルームシェアだって嘘ついてたんですけど、バレちゃって。そしたらすぐ佑が二号店にされて」

 そう言えば佑くんも「二号店に飛ばされたのは真由ちゃんと付き合ってるせい」と言っていた。

「理由聞いても『適任だからだよ』としか言わなかったですけどね。父は」

 父、は、シェフのこと。

「父にも母にも、根本的に反対されてるんですよ。私たち」

 言ってちらりと佑くんの方を見た。私も倣うとこちらは少し照れているのか耳をほんのり赤くして拗ねたように目を逸らせた。

「製菓衛生師免許のことは、真由ちゃんが勧めたの?」

 私が訊ねると「はい」とまっすぐ答えた。

「あんみつさんは聞いてるかもしれませんけど私、将来夫とケーキ店やるのが夢だったんです。だから佑にもちゃんと免許取ってほしくて」

 やっぱり予想通り。だけど「夢

」という過去形が示す通りその続きは「でも」という否定になった。

「お母さんの生き様見てたら、なんか。なにが幸せなのかよくわかんなくなって。お母さん本人にも『不幸になりたくないならパティシエだけはやめなさい』なんて言われちゃって」

 な……。ゆうこさんがそんなことを!?

「それで……佑くんに、さっき言ってたことを?」

「そうです。そしたらこの人バカだから。仕事辞めるとかじゃなくてとりあえず試験受けるのやめるって」

 ほんとバカすぎ。と辛辣(しんらつ)彼女はなじる。

 あうう。っていうか兼定くん静かだな、と思ったら勝手に本棚から製菓本を抜き取って熱心に読んでいた。もう、なにしに来たのさ。

「真由ちゃんがゆうこさんに憧れてたのは私もよく知ってる。けど……。真由ちゃんは真由ちゃんでしょ? ゆうこさんと同じ道を選んだとしても、結末まで同じじゃないよ」

 なにが幸せか、それは本人次第だし。

「あんみつさんは……。将来、小野寺店長とお店するんですか」

 こちらを見る真剣な瞳は大きい。その顔立ちはゆうこさんよりシェフに似ている気がした。

「できれば。そうしたいよ」
「ずっとですか。死ぬまで?」
「そこまでは……わかんないけど」
「小野寺店長が『そうしてくれ』って言ったら?」

 え。そんなの……どうするかな。

「言わないよ。言うかよ」

 はっとして声の主を振り向いたけど目は合わなかった。彼の視線はずっとその手の製菓本に向いたままだ。

「そんなこと言う奴にひっかかった、あんたの母親が男運なかっただけっしょ」

「ちょ、そんな言い方」

 慌てて遮ったけど兼定くんは止まらなかった。本から上げた冷たい視線は容赦なく真由ちゃんを射抜く。

「夫婦だからって強制できることなんかないでしょ。パティシエの妻だからってヴァンドゥーズにならなきゃいけない法律でもあんの? 人件費節約? 今の時代、他所(よそ)でガッツリ働いた方がよっぽど稼げると思うけどね」

 言うと、パタン、と製菓本を閉じた。

「おまえら自分を持たなさすぎ。相手に『そうして』って言われたらその通りにして、バカじゃねーの。自分の人生なんだから自分で決めろよ。免許取んのも、彼氏決めんのも」

 言うと兼定くんは用は済んだとばかりに立ち上がって製菓本を本棚に丁寧に戻し「帰るよ」と私を見た。

 たしかに『自立』ということに人一倍こだわってきた兼定くんにしてみたらこれはかなり腹立たしい案件だったのかもしれない。

 そんな兼定くんの前に「待ってください」と立ち塞がるのは真由ちゃんだった。

「小野寺店長は、あんみつさんと一緒にじゃなくてもお店やりたいですか? あんみつさんが辞めたいって言ったらどうしますか?」

 兼定くんは少し黙って、じっと真由ちゃんを見た。

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