第84話 お母さん

文字数 1,537文字

 いつかの南美ちゃんの可愛い声が甦る。というか、寸分の違いもないくらいにそっくりだった。

 オープニング映像が終わってその画面に映る女性は、笑顔がとても素敵な可愛らしい人。

『みなさんこんにちは! 沢口 春野です』

 この人が……兼定くんのお母さん。

 〈沢口 春野さん〉という名前くらいは以前から知っていた。だけど『お料理番組の人』程度の認識でその顔や姿はそれほど印象になかった、というのが正直なところ。

 よくよく見れば似てる……? 南美ちゃんには似てるかな……などと顔ばかりが気になって番組内容は全然頭に入らなかった。

 とはいえお料理番組だから、映るのはその手元ばかり。じれったいなあ、と思っていると画面の中で『先生』と呼ばれているその人が優しい口調で話し始めた。

『今日のお料理は、よく子どもたちに作ってあげていたレシピなんです』

 はっとした。

『お子さんにも喜ばれるレシピというわけですね』

 助手を務めるアナウンサーの女性がそう返して微笑んだ。春野さんが『はい』と笑顔で頷く様子が映る。

『とくに長男は気に入ってくれて。男の子が好む味なのかもしれません』

 うわ、録画! と思ってももう遅い。だけどたしかに言った。「長男」って。

 それはつまり、兼定くんのことだ。

 そのあとも食い入るように画面を見続けたけれど、タイトルの通り番組は五分で終わってしまう。差し替え差し替えであっという間に料理は完成して、アナウンサーの人によって早口‪で材料紹介があったかと思うと春野さんとアナウンサーさんが揃って頭を下げる映像が一瞬映ってそのまま終了してしまった。

 むう。なんて料理名だっけ。確認すると〈鶏のパリパリナッツ炒め〉とあった。作り方は残念ながらほとんど聞いていなくてわからない。

 再放送や配信の予定がないか調べてみたけど出てこなかった。代わりに〈沢口 春野の5分でカンタン♡クッキング〉は週三日、月火水のみのお昼にやっている番組らしいということはわかった。そして春野さんはレシピ本も何冊か出しているらしい。

 これは本屋さんへゴー! だ。そう思って勢いそのまま家を出た。


 よく行く本屋さんで普段は行かない料理本コーナーの前に立つ。隣の製菓本コーナーは今まで何度も見ていたというのに。

 本棚の背表紙に『沢口 春野』の名前を探していたら平積みされていた。そりゃそうだ、人気の料理研究家さんだもんね。

 カラフルで可愛らしいその本。ひとつ手に取ってぱらぱらと眺めてみた。だけどさっき観た〈鶏のパリパリナッツ炒め〉は残念ながら見当たらなかった。仕方なく閉じかけると、カバーの折り返し部分にあった著者紹介文が目に留まった。

 生まれた西暦、地名に続いて出身大学が記されていた。有名な女子大学。そうだ、この人はあの小野寺家の奥様だった人なんだ、と改めて思う。あのお父さんと結婚した人だ、きっとかなりのお嬢様だったに違いない。

 だけどそんなお嬢様から名家の奥様となった人が、どうして料理研究家になったのだろう。

 南美ちゃんを見てもわかる通り、料理どころか家事すらも一切やらずに済む生活だったんじゃないのだろうか。

 紹介文を読み進めるとこんな記載があった。

【結婚後、料理を趣味としその奥深さに魅了され調理師学校へ進学。海外留学を経て様々な国の料理と文化を学びその知識を活かして現在は日本で料理研究家として活躍】

 かなり略して書いてあるようだけどなかなかすごい。どのタイミングで離婚をしたのかも気になるところだった。

 そうするうちに私の中でむくむくとある気持ちが膨らんでいた。衝動、とも言えると思う。

 夜にノートに書き込んだ。


 ③春野さんに会う。料理を教わる。


 彼がいない今だからこそ、出来ることのような気がした。

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