第42話:東日本大震災とこども食堂1

文字数 1,616文字

 震災後の原発事故で、故郷から避難命令が出た。福島の人達の中には、農業を続けられず、首つり自殺を図った人もいたようだ。それでも略奪や強盗が頻発する事もなかった。コンビニに整然と並んで、買い物をする人達を見て、世界中の人々が、驚嘆した。その後、東北でガソリンや灯油が不足して、寒い東北で、苦しんでいる人が多いのを知った。

 そしてJRを使い新潟方面から盛岡へ日本最大の橫浜の日本石油・根岸製油所から貨物列車で、地震発生後の8日後の3月19日、午前9時45分に盛岡貨物ターミナル駅にガソリン、灯油が、届けられた。この光景を見て石津夫妻は、涙を流してJRの鉄道員に感謝した。東日本大震災からの復興の動きが出てきて、被災地へ通じる道路が、やがて開通した。

 すると続々と東北へ自衛隊や民間のボランティア、炊きだし部隊、食料を送るトラックが続々と届き始めた。被災者の避難受け入れを、首都圏で公営住宅を提供したり多くの施設を開放して移り住んでもらった。それでも福島の原発から近い地域では、高濃度の放射能のため長い間、帰宅困難地域への出入りが禁じられた。

 そして多くの家畜の命が失われ、現地の農家の人々の苦悩の日々を送らねばならなかった。平成芙蓉会でも募金活動を継続した。特に、震災孤児のための支援を積極的に行いバザーを数回行い石津夫妻の500万円を含め総合計1500万円を送金。海外からは、特に台湾のテレビ放送での募金活動が話題となり隣の大国、中国や韓国の数倍の規模の募金を送ってくれた。

 その後、我に返り熱海市内の平成芙蓉会の仲間に連絡すると大きな被害もなく無事であるとわかった。もちろん、この出来事で平成芙蓉会の会合が3ヶ月間中止になり再会されたのは7月中旬だった。7月の熱海で平成芙蓉会に出席して石津健之助は自分よりも先輩の5人の70代以上の方に東日本大震災についての意見を聞くと全員、震災孤児の問題が大きなテーマだと言い、

 将来の日本の事を考えると震災孤児に対して援助すべきだと発言。そこで平成芙蓉会で募金を募り3百万円を集めて東日本震災孤児基金に送った。東日本大震災で親を亡くした震災孤児に積極的に募金活動を奨めようと平成芙蓉会の会合で石津夫妻が2012年6月に「NPO未来の子供へ」というNPOを立ち上げると言い、積極的に協力してくれるようにお願いした。 

 その後、東京都庁へ行ってNPO設立の手続きを取り、その秋に正式に発足。平成芙蓉会として募金を石津夫妻が、「NPO未来の子供へ」を通じて震災孤児の子供の教育資金として5百万円を集め送金。2011年7月以降は、以前通り麻雀と釣りに出かけて石津健之助は、いつもの生活に戻った。

 奥さんは、7月から今年もバンクーバーとシアトルからアラスカクルーズの手伝いに7月4日に日本を出発して9月中旬までクルーズ船にのって看護の仕事に当たる事にした。日本大震災後、やっと平成芙蓉会の仲間と、車で、西伊豆、南伊豆に出かけて釣りを教えた。そして、暑い夏を過ごして、9月16日に、奥さんが、家に戻ってきた。

 その後、東京、銀座、橫浜へ行って、食事したり買い物する生活を謳歌して、涼しくなってきた。2011年11月を迎え寒くなった。2012年から、また、クルーズ船の看護婦としての仕事を始める決意をして、旅行会社に連絡し、1月中旬から、ロサンゼルスからのメキシコクルーズの手伝いに3月中旬まで出かけていった。

 平成芙蓉会の2012年1月18日の会合で、NPO開設の話をすると、金融界出身の佐山浩介さん65歳、食品関連の商社員だった、武田益男さん66歳、インターネットの達人の寺田博子、康男夫妻が賛同してくれた。

 「NPO未来の子供へ」のために、佐山浩介さんと寺田夫妻が、クラウドファンディングを募ってくれた。また、武田さんが、こども食堂に、協力的な5つの企業を探して来て、タイアップして活動する事を決めた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み