第38話:被災地に石油を送れ2

文字数 1,760文字

「ディーゼル機関車は惰性で走らないからこまめにノッチを開ける」
 手には十年以上前に磐越西線を走ったときの自作のメモが握られていた。
 こうした路線や機関車の特長を列挙したメモは「あんちょこ」とも呼ばれ、運転士の財産の一つだ。磐梯町から翁島の間、勾配が増し急カーブが迫る。

 谷のような地形で、冬場は雪がふきだまる。以前、遠藤さんが運転した旅客車両が動けなくなった地点もこの辺りだ。いやな記憶がよみがえったが、空は抜けるような快晴。きっと、大丈夫と、遠藤さんはつぶやいた。25日の夕方、講習を終えた遠藤さんを除く3人は新幹線と在来線を乗り継いで那須塩原に到着、タクシーで郡山に向かった。

 栃木、福島の県境を越えた所で、タクシーのフロントガラスに白いものが当たり始めた。 
「おい、雪だ」
付近をみると道路には積もっていないが草地には雪が残っていた。
「まずいな。1番列車登れるんだろうか」
その不安は現実のものとなっていく。磐越西線ルートでの石油輸送が始まった。

 3月25日、橫浜市根岸のJXの根岸製油所を出発した石油列車は20両のタンク貨車タキ1000を牽引して北へ進む。20両の内訳はレギュラーガソリン8両、灯油2両、軽油6両、A重油4両となった。同日深夜、新潟貨物ターミナル駅に到着。ここからタンク貨車10両が切り離され、ディーゼル機関車DD51の2台に連結された。

 運転士はJR貨物の東新潟機関区所属の斉藤勉さん。キャリア30年のベテランが慎重にブレーキを解除し、ノッチ・アクセルを上げていく。26日午前1時。予定通りの出発だった。会津若松駅近くのホテルに宿泊していたJR貨物郡山総合鉄道部所属の運転士、遠藤さんは、午前3時に起床。食事を取り、会津若松駅に歩いて向かった。

 傘を差すほどではなかったが、みぞれ交じりの小雨がぱらついていた。
「山の上はどうかな…」
 歩を進める遠藤さん。気が張っているせいか寒さは感じなかった。会津若松駅には線路を管理するJR東日本の関係者が20人、集まり、出発の準備が進められていた。

 午前4時、暗闇の中から石油列車が発着場にやって来た。機関車の前には「たちあがろう 東北」のヘッドマークが飾られている。運転席から斉藤さんが降りてきた。腹に響くようなDD51のエンジン音が会話を邪魔した。「この先は気をつけて。天候悪そうだから」。斉藤さんのその言葉だけが、遠藤さんの耳に残った。遠藤さんは運転席に乗り込み、いつもの様に指さし確認をしながら、運転手順をこなす。ふと時計を見ると、発車時間を15分ほど過ぎていた。機関車を付け直す作業があり、それが原因かもしれない。「くそ、遅れてるじゃないかよ」。いやな予感がする。運転席には遠藤さんの他、JR東日本の運転士が指導員として同乗。万一のトラブルに備えた。もう一人、JR東日本の会津若松駅の運輸区長も乗り込んできた。実は石油列車の初便には、多くの関係者が乗りたがっていた。

 あっけにとられる遠藤さんをよそに運輸区長は
「マニアだからさ、俺は。まあ、役得ってやつとおどけた」。
 当然、緊急時の連絡などのミッションを担っているのだが、その雰囲気で、遠藤さんの緊張は少しほぐれた。
「出発進行!16時過ぎ、遠藤さんの号令とともにDD51にタンク貨車の重さが伝わる」

 10両のタンク貨車は全部で600トン。重連のDD51の定量は700トンで、100トンの余裕があるはずだが、遠藤さんは「重い…」と感じた。通常の荷物に比べ、石油のような液体は密度が高いせいか手応えが重い。それだけだろうか。整備しているが、DD51は廃車寸前。馬力が落ちている懸念が拭えない。窓をたたく雨粒は徐々に大きさを増していく。

 郡山まで、あと60kmもあるのに。速度を上げていく石油列車を、関係者たちが祈るような気持ちで見送った。2011年3月25日。会津若松駅の会議室で、JR東日本側のミーティングが行われていた。石油列車のタイムスケジュールや異常時の対応手順などを確認した。会議終了後、会津若松駅長の渡辺さんは部下に声をかけた。

「JR貨からは何か言ってきたか」
「いや、何も。駅長、何か気掛かりでも」
「DD51の牽引定数、平地で800トンだろ」
「今回の600トンの石油タンク、重すぎないかな…」
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