第3話:仕事の仕方と業績表彰後、新潟転勤

文字数 1,694文字

 だから、優秀な医薬品プロパーは、必ず、得意技を持ってる。例えば、ゴルフのハンデが、シングル、テニス上手、釣りの名人、パソコンの達人、接待の達人、会話の名人、投資のプロ級の知識など。そして、その自分の特技を磨くために使う金は、惜しまない。

 もし成功すれば、完全に元が、取れ、おつりが来る程の収入が約束されている。もちろん出世競争にも勝てるわけだ。石津健之助の場合は、愛想の良さが、一番目の武器で、ハンサムで女医さんの受けが良い。二番目に、こまめに気が利き、小器用な点。三番目に、その気にさせるのがうまい。これらは、それ程の努力も、お金もかからない。

 ただ、自分が落とせると思う先生を探すには、営業経験がものを言うので5年以上経つベテラン医薬品プロパーになると、どれだけに早く、担当の先生と親しくなれるかだ。それが、業績を上げ、他者との競争に勝つポイント。石津健之助は、愛想の良さと、気が利き、ハンサムと来ているので、女性に人気があり他のプロパーよりも得をした。

 その他、仕事に関係ない女性にも不自由した事がなかった。独身寮にいても休みの日に多くの女性とデートできるので、同じ寮でも、うらやましがられた。1972年の最優秀新人賞で100万円の賞金を手にいれた。3年目の1975年には女性が、多く使う外用薬の販売キャンペーンで、全国一となりトップ賞150万円を手にした。

 そして入社5年の1977年に係長に就任し秋田営業所に転勤した。秋田営業所では、月曜に営業所を出て金曜日に帰ってくるという4泊5日の出張と過酷な営業活動。しかし、その厳しい営業活動を何とか克服。その理由は、1977年当時で、出張手当と営業手当と合計して1日1万円の手当が付く。秋田営業所では、住宅手当、寒冷地手当が、支給され住居費も軽減された。

 つまり、週に4泊で3万2千円と日当2千円の5日分で1万円の合計4万2千円が、給料とは別に入る。月に20万円近くの手当が給料の他に支給されるのだ。さらに石津健之助は、持ち前の愛想の良さと気が利き、ハンサムときている。出張先の小料理に自分ファンを作ったりアパートから通う少し年のいったナースのアパートに転がり込む日もあった。

 女性達に人気がありホテルに泊まらなくても済む幸運も得た。1977年当時で、通常の年でも年収5百万円を超してキャンペーンで表彰されると6百万円を越える事も珍しくなかった。そして、その金額の7割以上を貯金できると言う幸運に恵まれていた。まさにサラリーマン冥利に尽きるサラリーマン生活を送った。

 そう言う事で、1人の女性に決めるず、ひたすら昼の営業活動と夜のアバンチュールを楽しんだ。秋田に赴任して、また、色白の綺麗な看護婦さんが、多く、その中でもベテランで仕事に夢中で、婚期をのがした20代後半から30代後半の脂ののりきった美人と仲良くなった。その看護婦さんから愛宕製薬の薬を使ってやって下さいと先生方に宣伝してくれた。

 まさに濡れ手に粟の状態で業績を上げていき、秋田赴任3年目にして、業績伸び率、全国一で、表彰された。会社に入って8年目で2千万円を越える貯金ができた。思い起こせば、看護婦さんの中で、30代後半ので地方病院の外来婦長さんの新珠三千子「あらたまみちこ」さんには、公私ともに本当にお世話になった。

 内科、外科、整形外科、皮膚科で、中堅製薬企業の愛宕製薬の薬剤が、以前の2倍の売り上げとなった。さらに業績伸び率と新薬の売り上げでトップという2冠達成。1980年、年収合計が、遂に1千万円を越えた。やがて秋田での5年が、終わり新潟営業所に転勤となった。送別会を終えた週の土曜日、秋田で一番の温泉旅館に2人で泊まった。

 その晩、新珠三千子さんに予め声をかけ看護婦の仕事終了後、2人だけの送別会を開いた。夜遅くまで飲んだ。お世話になった事に対し、お礼を述べ官能的な夜を過ごした。翌日、彼女を自宅に送り別れ際、彼女が、石津健之助の胸の中で泣いてくれた時、得も言われぬ、愛おしさ、ゾクッとする程の色っぽさを感じ映画俳優1シーンの様な感動的な別れを経験した。
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