第19話:長期クルーズの旅行看護婦

文字数 1,721文字

 そうね行きたいので、宜しくねと石津三千子が、旦那さんに告げた。ただ、体調管理だけは、気をつけて下さいねと言うと、石津健之助に抱き付いて、ありがとう言うと旦那さんも彼女をしっかりと抱きしめた。石津三千子が、自由にさせてくれる旦那さんで良かったと思わず言った。石津健之助が、子供がいなくて、自由にやれる。

 そこで、あなたも自由に、いろんな冒険ができるのだから神様に感謝しなさいと笑いながら言った。そう言う事で、1998年は4ヶ月も海外で仕事をする事になった。1998年3月2日に、奥さんが、朝7時に家を出て成田からロサンゼルスへ出かけた。石津三千子は、ロサンゼルスについて旅行会社の人達とタクシーで現地の支店に出向いた。

 今回の仕事のスケジュールや注意事項を聞いた。それによると石津三千子は、サンペドロ港近くの中級ホテルに宿泊して3月5日からのバハカリフォルニア・クルーズやメキシコ・クルーズ、シアトル・クルーズに乗って日本人観光客の看護に当たる事になった。その後ホテルに帰り、ゆっくりして、同じホテルに泊まる同じ会社のクルーズディレクターに挨拶した。

 その後一緒に、ショッピングセンターに買い物に出かけ、食料品は衣料品、クルーズに必要な物を買い込んだ。3月5日、時差呆けもなくなり、朝10時にホテルを出て10時半にクルーズ船の乗船受付会場に行った。そして控え室で待ち昼食に出されたサンドイッチ、つまみと、おにぎりを食べた。午後3時に乗船してクレジットカードを登録した。

 支払いは全てクレジットカードで行いその後、かかった費用を請求して旅行会社から全額、支払っていただくシステムになっていた。出航前に全員で避難訓練をして、非常用のボートの近くで、その使い方の説明を受けて、約30分の訓練を終えた。そして船のパブリック・レストランで夕食をとって与えられた部屋に戻った。

 隣の部屋が、旅行会社のクルーズディレクターで何かあったら、すぐ動ける体勢をとるため、一緒に行動する事になった。彼は40代半ば、東京外国語大学卒業で、英語堪能な、元ハンサムボーイという感じの素敵な紳士だ。今回は、船酔い止めの薬と、下痢止め、脱水症状の補水液、虫刺され、怪我の救急セットが、主な、携行品だった。

 ロサンゼルスを出航し、1日、2日と終日クルーズをして、3日目の朝9時にプエルトバジャルタに到着。この町は、45キロにわたる壮大なビーチの自然が、美しい町。その日の夜18時に出航して、翌日の朝にマサトラン到着。この町は、シエラマドレ山脈の山麓の景色が美しく、多くのお客さんが、その山岳ドライブを楽しみに、町にくり出した。

 その当日の17時、出航し、最終目的地、バハカリフォルニア半島の突端の町、カボサンルーカスに、6日目の朝に到着。ここは、高級リゾートと多くの施設がつくられており、マリンスポーツや豪華レストラン、ホテルが建ち並び、観光客でにぎわっていた。船の出航の時間は早く、午後15時に出航し7日目は全速力でロサンゼルスをめざす。

 8日目の朝、8時にロサンゼルスのサン・ペドロ埠頭に到着。今回、体調不良の患者が、12名で、そのうち3名の症状が、重くて医務室に泊まってもらった。その時、アイスノンの様な冷却剤をタオルに巻いて首と足のつけ根につけて寝てもらい翌日に回復した。船酔いの薬も、かなり使われ2千人以上の人が乗船している事を実感させられた。

 今回は海が荒れてなく、静かな方だと教えてくれた。クルーズディレクターが、低気圧と遭遇すると、こんな大型客船でも、何かに捕まらないと立っていられない程の揺れる場合がある様だ。年に数回、嵐に、遭遇すると言った。そして船を下りてホテルに戻り、明後日の同じクルーズに出かけた。こうして8回のクルーズを経験し日焼けして熱海のマンションに帰って来た。

 クルーズの仕事は、食事代が、全て無料で、経費がかからないので、手取り金額は、多くなるとな告げた。英語漬けの日々で、英会話も勉強になり、日常英会話に不自由しない程度の英会話能力を身につけたと喜んでいた。奥さんが、今後も一緒に英会話の勉強しましょうと真面目な顔で言ったので大笑いした。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み