第4話:新潟で活躍し松本に営業所開設?!

文字数 1,704文字

「最後に彼女が、どこへ行っても、私の事を忘れないでと言われ、一粒の涙をこぼした」
 入社10年して優秀な業績を認められて、最年少で、課長に就任。日当が3千円で出張手当が1泊1万円になり1982年に新潟営業所へ転勤していった。新潟に転勤しても秋田と同じ4泊5日の出張で、新潟県でも長岡、十日町、津南、六日町、小出、浦佐などの山間部を担当した。

 月曜日に朝の会議を終えると昼に長岡の開業医さんを2件訪問して長岡中央病院か小千谷総合病院を訪問。その後、十日町病院、津南病院、小出病院、六日町病院と開業医を訪問するパターンで訪問していた。この地でも秋田と同様、最初は、ホテルに泊まった。しかし2-3ヶ月過ぎて小料理屋の訳ありバツイチの娘さんと仲良くなり呼ばれる日が多くなった。

 半年過ぎる頃には、ホテルに泊まる事がなくなった。週に4泊で4万円と日当3千円の5日分で1.5万円の合計5万5千円。そのため月に22万円の手当が、給料の他につく様になった。基本給も増えて表彰の賞金がなくても年収が、9百万円。新潟でもホテルに泊まらず、美味しい酒のつまみのイカ、タコ、ノドグロ、イワシ、アジのひものなどを買って行って喜ばれた。

 新潟も秋田と同様、色白の娘が多く違う所は、新潟美人の方が肉着きが良い。腕も太く昼間、農業を手伝いで稲の刈り入れをしたり重労働をしていた様だ。特に中越地方は、山菜も旨いし、へぎ蕎麦もいける。酒も銘酒が多く、どれも皆、美味しい。日本酒の銘柄としては、八海山、久保田「萬壽」雪中梅、越乃寒梅、千代の光、緑川、書き切れない程、いっぱいある。新潟の病院は、東京から新幹線で近く山奥の病院にも東京からの若手の先生が、交代で赴任していた。

 薬剤の選択権は、主に看護婦さんが持っている中小病院が多い。石津健之助は、ターゲットを決めると徹底的に先生と共にターゲットの看護婦マークして接待をし自分を売り込んでいった。スキー旅行や忘年会、送別会にも、できる限り参加して、ことごとく、マークした看護婦を落としていき中小病院での自社製品の売上占有比率を増やした。

 2年目、担当病院の売上伸び率トップで、再び手取りで年収1千万円を越えた。そして新潟赴任3年目、全国売上金額で毎回ベスト5に入り昇給して年収総額1200万円となった。その後、隣の長野県で苦戦してるので、信州大学を中心に建て直すように言われた。そのため1987年に信州大学病院のある長野県松本市に駐在を命じられた。

 もし売上を20%伸ばせば、松本営業所を新設し課長待遇の初代所長にすると東京支店長から電話が入った。また新潟から気に入った後輩を2人連れて行って良いと言われ、吉野重光28歳と坂井茂雄27歳を連れ、松本に赴任した。長野市担当の山根悟、東信担当の鹿島健介と長野県内を5人に回る事になった。

 赴任して5人の話合いで長野市担当の山根悟が交際費を20%増やしてもらえれば40%売上を伸ばしてみせるといった。そこで石津健之助が、自分の交際費を回すと約束。1987年に春から長野市担当の山根悟がゴルフ接待を増やし大型病院のターゲットの先生に入り込み売上が、伸びた。その後、飲み会を増やし大型病院の若手の攻略に成功。最後に定期的に開業の先生のゴルフコンペを企画し1987年7月には目標通り売上を20%伸ばした。

 その後、その勢いは衰えず1987年12月、単月で4割り売上を伸ばし売上金額、全国一になった。1988年4月、松本に松本営業所が開設となった。4月10日、戸倉上山田温泉で松本営業所設立の豪勢な祝賀会を芸者さんを呼んで開催。そして、さらなる飛躍を誓い合った。石津健之助は、信州大学病院に毎朝8時前に行き多くの科の医局を回りを継続した。

 そして各医局の秘書さんに気に入られた。そのため秘書さんから医局の教授以下の人間関係や貴重な情報を調べる事ができた。その医局のテニス同好会やコンピュータ研究会に入り込み大学の各医局に食い込んだ。また地元の大手医薬品卸の毎日の訪問で、開業医さんや中小病院の情報を集めて、その集めた貴重な情報を松本営業所の営業会議で細かく伝えた。
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