第12話:南半球旅行後、中村さんの葬儀と遺産

文字数 1,627文字


 買い込んだビールを飲み疲れたので早めに床につき4日目はシドニーへ、5日目は、ニュージーランドの首都、オークランドに到着し6日目は、ニュージーランド南島のクライストチャーチへ、7日目はオークランドに戻り成田行きの飛行機で日本に帰った。1994年10月11日に熱海に戻り、写真を整理したがオーストラリアもニュージーランドも新鮮な魚は旨い。

 脂っこい食事が多くホテルは、施設が割安なので良い季節にコンドミニアムに長期滞在が良いかも知れないと考えた。 中村さんは、料理が口に合わないので、景色も自然も良かったのにと、残念がっていたが、ショッピングセンターで自分の好きなものを買って、食べるのが一番良いかも知れないと言った。やがて1994年が終わり1995年となった。

 1995年1月12日、寒い日、中村さんから風邪をひき高熱を出して動けないと連絡があり慌てて石津三千子さんが管理人さんに事情を話して合い鍵で部屋を空けてもらうと彼女がベッドに横になっていた。熱を測ると39度を超え関節が痛くて昨晩から急に熱が出始め悪寒がしたと話した。管理人さんに車を借り近くの開業医に、石津夫婦が行き診察してもらった。

 するとインフルエンザの疑いがあると言われ湯河原厚生年金病院の救急に電話をして救急車を手配し奥さんがついて病院に向かった。石津がマンションに戻り管理人さんに借りた車を返した。午前10時過ぎインフルエンザの可能性が高いと奥さんから電話が入り、このまま病院で仕事をして夕方に帰ると言われ、家で待ち18時半に家に戻った。

 以前、中村さんから、もし私に、何かあったら、部屋のタンスの上段の左の引出に封筒があるので読んで、その通りにして欲しいと言われた事を思い出した。翌、1月13日、中村さんは一進一退の状態が続き、1月17日に肺炎を併発し1月18日、早朝、帰らぬ人になった。その週の土曜日、1月20日に、管理人さんに事情を話し中村さんの部屋の鍵を開けてもらった。

 タンスの上段の左の引出の封筒を取り出した。遺言書と書いた封筒の空け文面を読み始めた。「私は、石津夫妻と知り合い生きる活力をもらい楽しい日々を過ごさせてもらった」
「歌も、みんなの前で歌えて本当に幸せな毎日だった」
「特に魚を釣ってきた日の夕食に招かれてうれしかった」
「美味しい魚と酒と楽しい話を聞くのが一番の楽しみ・・・」と切々と書いてあった。

 しかし私も80歳近くになり体力の衰えを感じ、いつ倒れるかわからないので、ここに遺言書を残しますと書いてあった。便せんを空けると
「冒頭に私の預金通帳が一番下のタンスの引出の着物の下に置いてあります」
「宝石類を預けてある銀行と口座番号も記しておきます」

「この遺産を日頃、世話になった石津夫妻に相続していただきたい」
「そこで何卒宜しく、お願いしますと書いてあった」
「追伸として赤道を渡る瞬間、最初に舞台に立った様な感動を思い出した」
「そんな素晴らしい瞬間を与えてくれた石津夫妻に本当に感謝しています」

「本当に素晴らしい4年間を与えてくれてありがとうと書いてあった」
「奥さんが、最後の文字が、滲んでいたのを見つけた」
「その文書を見ていた石津夫妻の目に大粒の涙が、あふれた」
「管理人さんが、確かに中村さんの遺言書を確認しましたときっぱりと言った」

「石津健之助、葬式を手配しなくちゃと述べた」
「奥さんが、葬式の記事を地元の新聞に載せようと提案」
「1995年1月25日、10時、中村小夜子さんの告別式の記事を載せた」
「記事には、熱海の崇福寺で熱海の歌姫、中村小夜子さんの告別式を執り行います」

 友人代表・石津健之助と詳しく書いて新聞に載せ連絡先の電話番号を書いた。すると数多くの電話がかかり多くの人が、感心を持ってくれることが判明し石津夫妻が涙ぐんだ。告別式当日は快晴で9時半頃から続々と人が、集まり石津三千子さんと管理人さんが受付をして石津健之助が喪主として告別式を行った。
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