第29話:加納夫妻の死

文字数 1,744文字

 奥さんが、私たちには、子供もいないし、故郷と遠く離れて、親しい親類が、1人もいませんので、気は楽です。しかし、余命5年と、言われたら、どうしたら良いか、迷ってしまうと言った。すると、石津三千子は、それは当然です。残された自分達の人生を精一杯、楽しんで生きることを心がけるべきでしょうと励ました。

 加納幸夫さんは、吹っ切れたよ様に、石津健之助に、また、いっぱい甘鯛を始め多くの魚を釣り刺身、塩焼き、煮付けにして食べましょうねと言い肩をたたいた。すると石津健之助の目に涙が浮かび、やがて流れ落ちた。その後、石津健之助は、気を取り直し加納幸夫さんの手をしっかり握り、精一杯、楽しんで生きようと言うと、2組の夫婦が、涙を流した。

 そして、がっちりと握手を交わした。その後、2週に1回程度、釣りに同行するようになった。釣ってきた魚を石津健之助がさばいて、石津、加納夫妻の4人で食べた。ある日の事、加納幸夫さんが、石津健之助に、一級小型船舶操縦士の免許を取れよと言った。もし、俺が死んだら、あんたに、この船を任せるから、外洋までいけるように是非、取ってくれと頼まれた。

 その話を聞いて、わかりました、一級小型船舶操縦士の免許を取りますと言った。その後、参考書を買いに行こうと言い小田原の大きな本屋で、参考書を買い、勉強を初めた。2007年4月、ヤマハの教室に入りカラマラン・クルーザーヨットの運転を習い始め、2回目の実技試験、10月、念願の一級小型船舶の免許を取った。

 その晩は加納幸夫さんと石津健之助は加納さんのマンションで祝賀会を開き、いつもになくビールを飲んで喜んだ。為替では2007年になり豪ドルが急上昇し2007年10月2日に1豪ドル107円になり200万豪ドルが年利6%で7年で50%の利子がついて300万豪ドルになり1豪ドル107で両替して3億2千万円となった。

 税引き後利益1.6億円となり残金2.2億円と合計して3.8億円となった。その後、2007年11月になり、寒いか風が吹き始めた頃、加納幸夫さんが、咳き込む様になったのを奥さんが気づいて、石津夫妻と一緒に小田原市立病院の泌尿器科を受診すると、すぐに呼吸器内科に連絡し、診察を依頼しレントゲン、CT検査をすると癌が肺に転移している事がわかった。

 前立腺からの転移である事と、78歳と高齢であり抗がん剤の治療は難しいと言われ、加納夫妻も、その意見に同意し、自宅で、療養する方が良いと言われ、そうして、症状がひどくなったら入院する事にした。その後、石津夫妻が頻繁に顔を出した。12月22日、ひどい咳で苦しんでると電話があり行くと喀血して救急車を呼んで小田原市立病院に入院した。

 その後、症状が落ち着き、2008年となった。1月の暖かい日、急に元気になり、ひなたぼっこし、歩く練習を開始。しかし、翌週、体調が急変、呼吸困難を起こしICUに入院、3日後の1月21日に帰らぬ人となった。最後の時、奥さんと石津夫妻が立ち会っている時に加納幸夫さんが石津健之助を呼んで奥さんとカラマラン・クルーザーを頼むと言い息を引き取った。

 奥さんは、取り乱したが、先生からご臨終ですと言われた。我に返り現実を認めようと努力したが、やはり号泣して石津三千子に抱き付いた。数日後、平成芙蓉会の仲間とマンションの友人達、30名が参列し、告別式を行い、お別れした。葬式を終了時、加納和美さんが石津三千子に、もし私に何かあったら部屋の奥のタンスの真ん中の引出を見て下さいと言った。

 そこで、縁起でもない事を言うものではないですよ、しっかり生きて行きましょうと励ました。葬式を過ぎると、加納和美さんは、食事を足らなくなり、元気がなくなったので毎日、石津三千子が部屋をたずねて、食べ物と飲み物を手の届く所に置いて帰るようになった。その後3月の小春日和の日に散歩に出かけた加納和美さんが帰ってこないのを不信に思った。

 そのため消防署と警察に電話をして調べると、加納和美さんが、車にはねられ、熱海の病院に運ばれたと知らされた。石津健之助が、車で病院に着く、既に、息絶えていた。病院に着くと、お知り合いの方ですかと、聞かれ、そうですと答えると警察へ行って欲しいと言われた。
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