第23話:グアムから帰り北海道と豪州旅行

文字数 1,630文字

 ホテル見学に出かけ、ニッコーホテル、ヒルトンホテル、ハイアット、グアムリーフ、ウエスティン、パシフィックアイランドクラブなどがあり、特に、目を惹いたのがパシフィックアイランドクラブで、機会があったら是非、泊まってみたいホテルだ。その他、デラックスなホテルから、リーズナブルなホテルまで数多くのホテルがあった。

 そして、PICのテニスコートと川の様なラグーンをカヤックで移動する施設を借り、遊びに行った。そのホテルの向かいのロイヤルオーキッドホテルにあるバーベキューリブで有名なトニーローマのリブ・ステーキを食べたが、確かに旨い。また、カプリチョーザのピザ、スパゲッティも大盛りであり、1人前を2人でシェアしてちょうど良かった。

 1ヶ月半、グアムに滞在し、暑い位のグアムを経験し2001年3月1日に成田に帰って来て、夜遅く熱海のマンションに戻ってきた。2001年4月始め、長野県の更埴の杏の花を見に行こうと計画し、4月7日、熱海から河口湖、富士吉田から甲府、韮崎、長野県、茅野から152号線を北上して大屋から上田を抜けて、更埴へと向かった。

 戸倉上山田温泉に一泊し、更埴の杏祭りの会場に出かけ、ピンクの可憐な杏の花の写真を何枚も撮ってきた。今年の夏も暑く、石津健之助は愛車のスカイラインで夫婦で新潟から小樽へフェリーで行き、陸路、釧路プリンスホテルに向かい8月1日から9月1日までの1ケ月間長期滞在を計画した。釧路、網走を北上して稚内までドライブした。

 熱海に戻って2001年9月11日に何の気なしにテレビを見ているとアメリカ同時多発テロの放送が飛び込んできた、はじめは、何か、新しい映画かなという程度で見ていたが、これが、本物の映像だと聞かされた。背筋が凍る思いをしたのを鮮明に覚えている。これでアメリカの繁栄も終わりかなと世紀末のような重苦しい空気に包まれた。

 石津夫妻も呆然として9月を過ごした。日本でもネットバブルが終わり株式市場も凍りつき回復の兆しが全然見えない。2001、2年も不景気で旅行会社から石津三千子に旅行・看護婦の仕事の依頼が来なくなってしまった。その後2003年、少しずつ景気も持ち直して来たと思った矢先の3月20日、アメリカが、テロへの戦いという名目で、イラクへ宣戦布告。

 その後、アメリカは、イラクが、大量兵器を隠し持っているという理由でイラクと戦争を始め、短期間で、勝利してみると、イラクに大量破壊兵器が見つからないという現実が待っていた。2003年も7月20日から南半球のオーストラリアのケアンズに出かけて、2ケ月間の長期滞在。そして現地で豪ドルを銀行で下ろして生活費に使った。

 今回は長期滞在になるので車を借り、ケアンズから15分、北部のパームコーブの格安優良なコンドミニアムに約50日の長期滞在となる。オーストラリアは、日本と同じ右ハンドルで左側通行であり、全く違和感を感じなく運転できたのが良い。日中の最高気温が25度、最低気温が16度と快適な気候で過ごしやすい。

 コンドミニアムも月に10万円程度で食料、飲料もスーパーマーケットで購入して生活した。今後も、避寒、避暑に南半球のオーストラリアは使えると石津夫妻は考えた。その後、9月10日に日本に戻って釣りをしたり麻雀したり通常の生活に戻った。秋風が、肌寒くなり、11月、12月が過ぎて、2004年を迎えた。

 石津健之助の資産が2億1千万円となったが、奥さんの資産が8千万円あってマンションの費用や生活費のほとんどを出してもらい旅行や大きな買い物を石津健之助が支払う様にしていた。以前購入して1年定期預金に預けた豪ドルの利息が増えて、かなりの金額になった。

 また、豪ドルが、上昇したら、円に替え様と考えていた。2004年の1月20日からに、シドニーへ旅行し、ついでにタスマニア島へ出かけると、ワイングラスベイという名所や、ベイオブファイヤーという奇妙な名前の海が見られた。
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