第55話 四傑の集合(4)

文字数 6,574文字

 マーハンドが去った後、にわかに寂しさが募ってくる。
 エムバを出て数ヶ月になる。母のことが思い出された。幼かった時、母はこうやって毛布を掛けてくれたものだった。
 くそ、僕は強くなるのだ。それまではここで頑張るんだ。そう思えば思うほど、ランプの灯りで揺れる木の器の食器を重ねた棚が霞んで見える。
 その時、トントンと扉をノックする音がした。マーハンドが忘れ物を取りに戻ってきたのかも知れない。急いで涙を拭う。
「アルジ、そこにいるの」
 ランプを片手に青い目をした人形のような美女が入ってきた。
「あ、エリン」慌てて、パッと起き上がる。
「入ってもいいかしら」「あ、どうぞ」
 ランプを入口に置き、エリン・ドールが入ってきた。毎日見ているのに、細くスラッとしたスタイルに見惚れずにはいられない。
「ごめんなさい。寝ていたのね」
「いえ、今、横になったばかりです」
「そう。ここに座ってもいい?」「は、はい」
 先程までマーハンドが座っていたベッドに青い目の人形が腰掛ける。組んだ細長い足が美しかった。
「マザーから聞いたの。あなたがここで休んでいるって」「そうなんですか」
 間近にいると未だに緊張する。しかし、何のために、わざわざ此処に来たのだろうか。もしかして、あの夜の時の様に自身の欲望を満たすためにきたのだろうか。不安と期待で鼓動が高まる。
「あなたに御礼をしたくて来たの」
「御礼?」
 エリン・ドールは、うんと頷く。
「ムバンドの革をくれた御礼よ。お陰であたしのスナイフルを直すことが出来たわ」
「あ、ああ、でも、それは父上から頂いたものです。僕の物ではありません」
 ううん、とエリン・ドールは首を横に振る。
「勿論、あなたのお父様にも感謝しているわ。でも、それはあなたがお願いしたからではなくて」
「それはそうだけど、お金も払ったんでしょ。だったら、」
 違うわ、とエリン・ドールは首を横に振る。
「スナイフルが傷付けば、あたしの心と体も傷つく。お金に代えられるものではないわ」
 それほどまでに、大事なものだとは、只の武器という訳ではなさそうだった。
「魔獣ムバンドは、ノーマル山脈の奥深く、人が行けない魔境に棲むという伝説の生き物。小さいとき、母がそう教えてくれたわ」
 エリン・ドールの母親はエミリア族の戦士だったと聞いた。アジェンスト帝国との戦いで敵に捕まってしまい、とある貴族の奴隷となったのだという。
 そして、貴族の父親との間に生まれたのが、エリン・ドールだ。
「美しくて、誇り高い人だった。奴隷という立場だったけど、エミリアの戦士としての誇りを失わない強い人だった」
 エリン・ドールが、その血を濃く引き継いでいるのは、容易に推測出来る。
「母はね、戦場で仲間達を庇って帝国の兵に捕まったみたい。大勢の兵たちに囲まれてね。どうにもならなかったみたいね」
「男達の慰みものになったと思うわ。そして奴隷としてオビリドに来たの。そこで父と出会ったのよ」
 表情はいつものように淡々として人形のようだが、こんなに身の上のことを話すエリン・ドールは初めてだった。
「父はね、いい人だったの。奴隷だった母のことを愛してくれた。スナイフルはエミリア族の女に取って命と同じ。母のスナイフルは、捕虜になったときに帝国軍に取り上げられたのだけれど、父が手を尽くして捜しだしてくれたみたい」
「逃げ出そうと思えば、いつでも逃げ出せたと思うけど、母は父の元から逃げなかった。そして、私が生まれた。彼女は良くエミリア族の話をしてくれたわ。自由で誇り高く、アロウ平野を駆け巡る遊牧の民だって。私もいつか、アロウ平野を自由に駆け巡るんだって思ってたの」
 エリン・ドールは組んだ脚を崩し、片膝を立てる。
「再び、帝国とエミリア族との間で大きな戦いが始まったとき、彼女はあたしを置いて、父の元を去っていった。帝国と戦うためよ。そして、戦場で死んだ」
 こんなとき、なんて声を掛ければ良いのだろう。僕は父も母も健在だ。下手な慰めは止めた方が良いように思える。そう思うと何も言えない。
「彼女は最初から死ぬと分かっていたみたい。あたしが死んだら、スナイフルはあなたが使いなさいって言っていたもの。父は手を尽くして、形見であるスナイフルを捜してきてくれた。あたしの元に帰ってきたスナイフルは主を失って泣いている様だったわ」
 スナイフルとは、エミリア族の女達の命そのものなのだろうか。
「エリンの歌は、お母さんへの鎮魂の想いが詰まっているんだね。きっと、お母さんに届いているよ」
「そうね」エリン・ドールが少し目を瞑る。
「さっき、アルジの歌を聞いて、母のことを思い出したの。すごい悲しげに歌っていたわ」
「うん」
 それ以上、エリンは聞こうとはしない。
「結婚をずっと約束していた許嫁のことを思い出したんだ、でも、エリンと会う少し前に婚約解消になったんだ」
「そう」と、エリン・ドールがアルジを見つめる。
「私はね、私と父を置いて出ていった母のことを恨んではいないの。ただ、彼女のように、死んでもいいから自由でいたいだけ」
 これが、エリン・ドールの人生観なのか。
「魔獣ムバンドは、エミリア族の守護神。何年かに一度、アロウ平野に降りてくる。そして、自ら命を断ち、その身をエミリア族に捧げると言われている」
「エミリア族にとって、神の使いみたいだね」
「そうかもね。ムバンドの革で出来たスナイフルは、あたしの一部。助けてくれた相手には礼を尽くさなければならないわ。アルジ、あなたの望みを教えて。何でもいいわ。あたしが出来ることに限られるけど」
 青く美しい大きな瞳で見つめられ、アルジは戸惑う。
「エリンが出来ること。それなら、武術の稽古をつけてほしい。僕は強くなりたいんだ。槍が上手くなりたい」
 父レンドが、スナイフルの演武を所望し、エリン・ドールとラリマーが立ち合ったときの衝撃は忘れもしない。
 エムバ族の中でも10代の若さながら、上位の槍捌きを持つ、あのラリマーを子供扱いしたのだ。
 ラリマーには、背が低いことを揶揄され、事あるごとに虐められてきた。そして、婚約者だったエリナは、アルジとの婚約を解消し、ラリマーの妻となることが決まっていた。
 見返してやりたかった。エリン・ドールに鍛えてもらいたかった。
「ううん。それは前に約束したことよ。それに、あなたが強くなることは仲間の為でもあるから御礼ではないわね」
 そう返されても、他に何も思いつかないアルジは困惑する。彼女にしか出来ないこととは一体なんだろう。
 その時、あることに気付く。いや、気付いてしまったというべきだろう。
「何かあるみたいね。言ってみて」
「えっ、あっ、でも」
「どうしたの、顔が真っ赤よ」
「あ、うん」
 言ってみて、と促されても、とてもこんなことは恥ずかしくて言えるはずが無い。エリン・ドールにも軽蔑されるに違いない。だが、今を逃したら後悔するかも知れない。アルジは顔を上げた。
「い、嫌だったら、嫌と言ってください。諦めますから」
 うん、とエリン・ドールが頷く。相変わらず無表情だ。
「あ、あの、その」
 口の中が渇き、うまく言葉を発することが出来ない。でも、ここまで来たら話すしかない。少年は覚悟を決めた。
「あの、嫌だったら、いいんです。いいですから、僕に、エ、エリンの裸を見せて欲しいんです」
 言ってしまった。恐る恐る顔を見上げると、エリン・ドールの表情は変わっていない。
 まずい、軽蔑されたか、弁解しなくてはと焦る。
「あ、いや、変な意味じゃなくて、あの、」
「そんなことでいいの」「え」
 エリン・ドールはスクッと立ち上がった。ピタッと肌に吸い付くような奇抜な出で立ちの衣装をスルスルと脱ぎ始める。
 躊躇なく脱ぐのを見て、ターナに言われたことを思い出す。「いいかい。誰もお前のことを一人前とは思ってやいない。それは男としてもだ。お前は裸をあたし達に見られるのが恥ずかしかったかも知れないが、あたし達は何とも思っちゃいない」
 やはり、僕に裸を見られることなど、何とも思っていないのか、少し、ショックを受けるが構わなかった。
 初めて会った時から、エリン・ドールに魅せられてきた。こんなにも美しい女性がいるものなのか。アデリー山脈でターナ達と一緒に水浴びをするエリン・ドールの裸体は眩しすぎて、まともに見ることが出来なかった。
 今、その一糸纏わぬ体が目の前にある。ランプの灯りに仄かに照らされた真っ白な肌、今にも飛び立ちそうな蝶のタトゥー。細かく束ねて編んだ青く長い髪。 
 そして、見つめられると、どこまでも沈んでいくような澄んだ青い瞳。何もかもが美しい。神が創りし造形だ。
 アルジの頬をツウーと涙が伝う。
「どうして泣いているの」
「あまりに綺麗すぎて」
「あたしの体を褒めてくれているのね。ありがとう、アルジ」
 エリン・ドールが近付いてくるのを目を逸らさずに見つめる。
「見ているだけでいいの?」
「うん、それだけで、僕は満足だ」
「そう。ターナに聞いたわ。妻となるべき女性としか夜を共にしていけないと教えられてきたそうね」
「うん」
「だったら、今日だけはアルジの妻になってあげる」「え」
 エリン・ドールの左手がアルジの右頬に触れる。「あなたの妻であれば問題ないんでしょ」
 スゥッと青い目の人形の顔が近づいてくる。甘い口付けに、アルジは気が遠くなるような錯覚を覚えた。
 滑らかな曲線とシットリと手のひらに吸い付く柔らかい肌。その美しさは触れれば触れるほど増していくようだった。
 翼を形どった黒いチョーカーネックレスが白い首筋に映える。うつ伏せとなったエリン・ドールの青い瞳が心なしか潤み、白い肌が仄かに紅潮しているように見えた。
 目の前にある蝶のタトゥーのあまりの見事さに見惚れずにはいられない。
「蝶はあたしの意思の象徴。あたしは誰にも束縛されずに自由に飛び回りたいの」
 彼女は自由を求め戦って来て、これからも戦い続けるのだろう。誰も彼女を拘束することなど出来やしない。その孤高さと気高さは出生に関係しているのだと、アルジは理解する。
 今夜はアデリー山脈での夜とは違った。
「アデリー山脈での夜は、あたしが勝手に満足しただけ。夫を満足させるのが妻の役目ではなくて」
 こんなにも妖艶なエリン・ドールを見たのは初めてだった。
 あれから、時間が過ぎ、日付は変わったかも知れなかった。物置部屋の粗末なベッドの上で、エリン・ドールはアルジの胸に身を預けていた。
 結婚したら、こんなにも甘い一時を過ごすことが出来るのか、エリン・ドールが本当に妻だったら良いのにと思わずにはいられない。父王レンドには三人の妻がいた。そのうちの一人であったエミリア族の姫のことを思い出す。
「僕には、エミリア族の血を引く妹がいるんです」「お頭から聞いたことがあるわ」
「でも、帝国との戦いでエミリアの母は亡くなり、妹も行方不明になってしまった。エムバの存亡に関わる大きな戦いでした」
 あまり、仲の良い兄妹とは言えなかった。腹違いの同い年の兄と妹は性格と見目もまるで違った。体格も小さく、消極的な性格の兄に対し、褐色の肌と燃えるような赤い髪と大きな瞳、そして勝ち気な性格の妹は正反対だ。
 小さいとき、アルジは妹と兄妹喧嘩をして、よく泣かされたものだ。
「妹さんは何というお名前」
「サマラーといいます。赤い髪と大きな瞳が特徴です」
 そう言えば、エミリア族の女性達は印象的な大きな瞳を持つ者が多いと感じる。エリン・ドールの人形のような美しさとは違うが、サマラーの赤く情熱的な瞳も美しかった。
「妹さんはスナイフルをお母様から教えて頂いていたのかしら」「多分、そうだと思うけど、妹がスナイフルを持っているのを見たことはないよ」
 そう、とエリン・ドールはアルジの胸に頬を押し当てる。
「お頭は、あなたのお父様から頼まれて消息を捜しているわ。あたしも捜しているのだけど、ごめんなさい。まだ、わからないの」
「うん。仕方ないよ。でも、エミリアの母上がお亡くなりになったとき、父上はかなり嘆いていた。それに、サマラーまで連れ去られてしまった」
「けれど、あなたの妹さんは、きっと生きているわ」「僕もそう思うよ、きっとサマラーは生きている」
「そろそろ寝ましょ。明日は早いわ」「うん」
 エリン・ドールは、アルジの胸ですぐに寝息を立て始めた。心做しか満足そうな表情に見える。エリンもこんな顔をするんだな、と見つめている内に、アルジも夢の中に入っていた。
 朝、目を覚ましたとき、エリン・ドールは居なかった。昨夜のことは本当に夢を見ていたのではないかと思う。ただ、この腕に抱いた感触は、まだ残っている。
「いつまで寝てんだい、早く起きな」
 ターナだった。昨日、あれほど酒を飲んでいたはずなのに、いつも一番に起床する。
「あ、おはようございます」
「おう、早くしな。もう朝飯の準備は出来てるぜ」「は、はい」
 アルジはそそくさと起きるが、自分が裸で寝ていたことに気付き、アッと声を上げる。
「昨夜はそんなに暑くなかったはずだが、お前、すっ裸で寝ていたのか」ターナに冷めた目で見られる。「い、いや、これは、その」
「あたし達と離れて寝られたから、開放感を味わってたんだろが、今日からはそうはいかないよ。ほら、とっとと早く起きな」「は、はい」
 昨夜のことはやはり夢ではない。ターナに気合を入れられ、直ぐに着替える。井戸水を汲み、顔を洗い終えると、昨夜、酒宴の会場だった酒場に入る。
 蒸しパンに軽く炒めた豚肉と葉物の野菜。それに、鶏肉と根菜の入ったスープが今朝の献立だった。
 マーハンドの店に来てからというもの、毎食、食欲をそそるものばかりが並ぶ。さすが、料理自慢の酒場だけのことはある。
 アデリー山脈を越えるまでの間、保存食しか食べることが出来なかった、エリン・ドール一味、それにオバスティ一味の者達も機嫌がよかった。しかし、美味しい食事もしばらくお預けだった。
 この朝食を食べたら、再びアデリー山脈を越えて行かなければならない。また、しばらく乾パンと干し肉の世話になるのかと思うと、少し憂鬱になる。
 見渡すと、ごった返す会場の中、エリン・ドールが見えた。マキ、ルナ、ナナ達と一緒に食事を取っている。普段と変わらない相変わらず優雅な佇まいだ。
「おはようございます」
「おう、アルジ、おはよう」
「アルジ、おはよう。良く眠れた」
「おはよ」
 女達の隣に腰掛ける。チラッとエリン・ドールを見ると、いつものように静かに食事を取っている。 「おはよう、アルジ」
「あ、お早う、エリン」
 やはり、昨夜のことは夢だったのか、と思うほど普段と変わりなかった。でも、僕は決めたのだ。
 朝食が終わり、出発に向けて、アルジはヤクの背に荷物を積み込む。ターナが仲間達に色々と指示を出している。
 今回、テネアに向うエリン・ドール一味は総勢24名になる。先発隊と後発隊に分けてアデリー山脈を越えるのだ。エリン・ドール、ターナ、ナナが率いる12名の先発隊と、マキ、ルナが率いる12人の後続隊だ。アルジは先発隊となっていた。
 ふと気付くと、周りにいた女達が居なくなり、偶然、エリン・ドールと二人きりになった。アルジはある覚悟を決めていた。
「エリン」と声をかける。
「何」と振りむいた青い目の人形は無表情だ。
「エリン、僕、エリンに伝えたいことがあるんだ」「何かしら」
「僕が王になれるよう一人前に成れたら、僕の、僕の」
 告白しようとした、その時、エリン・ドールの左手がそっとアルジの口を塞ぐ。
「いいわ。貴方が一人前になれたら、また、一晩だけ、あなたの妻になってあげる」
「え、あっ」
「じゃあね、もう少しで出発よ」
 青い目の人形がニコッと笑った。呆然として、立ち去るのを見送るしかない。
 エリン・ドールは、僕が言おうとしたことを分かっていたのだろうか。はぐらかされたようだったが、今は深く考えないことにしよう。
 だって、青い目の人形が微笑むのを見ることが出来たのだから。
「出発する」
 ヨーヤムサンの合図で手下達は一斉に動き出す。今朝のヤクの調子は良さそうだった。餌はいつもの通りでいいだろう。アルジの頭の中はヤクの世話のことで一杯になるのだった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み