『名前を呼んで』(天野「仮初世界の疑似記録」)

文字数 906文字

由来は型番名。
K、それに当て字をしただけのもの。
自分の名前は個体識別のための記号程度にしか思っていなかったけど、親友は「僕は好きだなぁ」と言った。
「偶然とはいえ、けーくんにぴったりの字だと思うよ」
例え単なる慰めでも、その言葉はきっと裏切っちゃいけないものなんだろう。
*****

 名前というのはただの記号。
 どんな文字、どんな音を使おうが、本人がそれを己のものだと認識するならそれが名前。
 ずっとそう思ってきた。多少の好みを述べる事はあっても、自分自身の名前に関しては特にこだわるところはなかった。何しろ多くの名で呼ばれ過ぎている。それが二つ名、忌み名、仮の名、偽の名だとしても、そういうものを全部含めて名前とするなら、得てきた名前は多かったし、名前とされた時点でそれを認識してきた。
 だからそう、拘りを持つ以前の問題だった。
 名前というのは相手に呼びかけ、相手が己のものだと認識すればその時点で成立する唯の記号であったのは、間違いなく自分の意志だったというのに。

 あの頃の親友の戸惑いが、今頃になって理解できるなど、自分もまだまだ未熟らしい。

 用意されている名で決してこちらを呼んで来ることのない相手からの呼びかけが、生まれて初めてしっくりくるなんて。
 それは続柄名であって、個体名ですらないのに。
 それでもこの子が呼ぶのならばそれが一番納得ができるもので、成る程名前とは大事なものが出来て初めてその威力を発揮するものだったらしい、と今更のように思い知る。
 だからあの頃、親友も戸惑っていたのだろう。
 彼の名を呼ぶたったひとりが見つかったから。
 記号であった自分の名を呼ばれる度に変質していく己の中の感覚に、きっと親友は狼狽えていたのだ。

 今の自分のように。

 ぺちっと小さい手で顔を叩かれる。
 会話途中でふと意識をそらしたことがバレたらしい。顔には出したつもりがないのに、不思議とそういうのは伝わるのだ。
「にいちゃ、め!」
「うんごめん。今戻った」
「もーっ!」
 怒った声を上げ、ぷくっと頬を膨らます。
 年々感情表現が豊かになっていく弟に、後何年呼ばれるかわからないその呼び声を楽しもうと、膨らんだ頬を軽くつついた。
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