『飼い犬に手を噛まれる』(ケテル「楽園外のセフィラ;第1の話」)

文字数 1,135文字

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冷たい視線を寄越し、けれど無言。
まさに物言わぬ抗議を続けるソレの視線に、元より我慢という概念のない彼はあっさりと手を出した。
小気味好い音を立ててソレの頭蓋を直撃した拳から微かな痛みが伝わる。
「言いたいことがあれば言え」
そう告げれば、言葉の代わりにソレの手が返ってきた。
*****


 カインという男は感受性豊かというか、感情表現に溢れている。
 よく笑いよく怒る。というか怒る場面の方が多い気がするが、これは単にカインの性格の問題だとケテルは考えている。(その思考において己に問題があるのではなどという謙虚な回路は存在していない)
 ただ、怒る場合には理由がすぐにはっきりとわかることの方が多い。
 聞くまでもなく本人がそれを叫ぶからだ。
 なので、こんな風に黙り込むことは稀である。
 それだけ怒りが強いのか、それとも言えない理由があるのか。
 多少考慮はしたけれど、元から堪え性はないので直ぐに手が出てしまった。それを後悔するような暇も与えず、向こうからも手が伸びてべしっとケテルの手を弾いてくる。こういう、打てば響く鐘のような反応は嫌いではないから然程気にすることなくカインを見下ろす。
「オイ」
 ここまでしてもまだ無言。
 現在地がケテルの自室でなければ、見ている誰かが怒り出しそうである。
 ただケテル自身は、普段にないその様子に少々不穏なものを感じ始めていた。
「貴様、何を」
 言いかけたこちらに、カインが近くにあった紙を乱暴に引き寄せて何かを殴り書いて見せてくる。
『喉痛いから喋りたくねぇ』
「は?」
 意外なその回答に目を瞠ってる間に、カインはさらに追記する。
『昨日のお前のせいで風邪ひいた』
 昨日?
 何かあったか、と振り返り、そういえば揃って水を被ったのだったと思い出す。事故のようなものだ。雨で溜まっていた水が二人の頭上から一気に降り注いだだけ。それを被るに至るまでの経緯はいつも通りくだらないものだったと思うが、カインをしてそれ自体がケテル起因の、要は人災だとでも訴えたかったらしい。
 全くもって理不尽な、根拠のない主張である。
 水をかぶった不注意まではまだしも、そこから風邪を引くかどうかなど個人差だ。狙って出来るはずもないし、仮に出来てもやる意味がない。
 とはいえそこまで体調が酷いなら休暇くらいは検討するものを、何を真面目に朝から出勤してるのか。
 あれこれ言い返そうとしたケテルの前で、カインはさらに雑な字で付け加えた。
『なんとかは風邪ひかないってマジだったのな』

 さて。
 この補佐には『余計な一言』『失言』『蛇足』などという単語を教えてやらなければならないらしい。
 その前に、喉以外はすこぶる普段通りに元気らしい補佐の頭に、再度拳を落とすところから始めよう。
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