第23話
文字数 1,325文字
「嫁がれてしまいましたな、殿。寂しくはございませぬか?」
お市が出立した日の夕餉の席で、笑みを湛えた帰蝶が信長に問うた。兄妹の仲の良さは城内でも有名である為、侍女たちも顔には出さないが信長がどう返答するか気になるようだ。給仕をしながら耳をそばだてる。
「ふん。少々手元に置きすぎたわ」
投げやりとも聞こえる口調で吐き捨てるが、帰蝶は含み笑いを止めない。
「ずっとお傍に置いて手放さなかったのは、殿ご自身ではありませぬか。寂しいからというて、そのような言い草は」
「黙れ、儂を愚弄する気か?」
癇癪が炸裂したが、正妻は慣れた様子で聞き流している。侍女たちの方は首をすくめて、そそくさと信長の視界から出来るだけ外れるように移動した。
「いつかは嫁に出さねばならぬと思うておった。ただ、この信長に少しでも役立つような大名を、探していただけじゃ」
猛然と湯漬けを掻き込むと、信長は憤然とした面持ちで正妻だけに聞こえる声で告げた。
「浅井家ならば、国は京にも近い。あれも幸せになれるであろう」
その声音には間違いなく最愛の妹への慈しみが込められており、帰蝶は静かに微笑むと頷いた。異国の地で生きねばならぬ辛さは、彼女が重々承知している。その中で女としての幸せを掴み取る。お市ならば、掴み取れるのではないかと思った。
贅を尽くした衣装の数々。煌びやかな蒔絵が施された調度品。内政の充実さを窺わせる潤沢な財を惜しげもなく注ぎ、お市の婚礼行列は、北近江を目指して進んでいく。尾張の領民は皆、その豪華絢爛な婚礼行列に目をみはりながら伏し見送った。
侍女として婚礼行列に付き従いながらも、於小夜は下忍びの九郎と連絡を取り合っていた。定期的に九郎が於小夜の許に訪れるという約束事を取り決め、行列はやがて琵琶湖を望んだ。
「於小夜、琵琶湖はなんと穏やかなのか。美しい」
長旅で少々疲れた様子のお市だったが、湖面から吹く爽やかな風に、心が晴れたようである。季節は春であり、陽光がお市の顔を優しく照らし出し、えも言われぬ美しさであった。於小夜も武田の三ツ者という立場を一時ほど忘れ、その美貌と気品にうっとりと見入ってしまった。
(ああ、お市さま。何とお美しいのか)
この永禄十年で、お市は二十歳となった。初めて会ったときは十三歳の可憐な姫が、七年の年月を経て匂い立つような大人の女へと、変貌を遂げている。固い蕾だった白百合は今、北近江で大輪の花を開こうとしている。
於小夜も二十三歳になっていた。忍びとしての使命は忘れていないが、このたおやかな姫の許で暮らすうちに、このままお市の傍にずっといたいと思うようになってきた。その都度、甲斐にいる信玄の顔が浮かび三ツ者としての自分を取り戻すのだが、最近では信玄の顔も浮かぶことが減ってきた。
(府抜けたものよ、私も)
このような姿を、首尾良く柴田勝家の足軽として潜り込んだ小十郎が知ったら、愛想を尽かされてしまう。そこまで思い至ったとき、小十郎の精悍な顔を思い起こし図らずも胸が騒いだ。同じ織田家に仕える者として連絡を密に取り合ってきたせいか、於小夜の中に小十郎に対する特別な思いが芽生えていた。小十郎も今は二十八歳となり、忍びとして盛りの時である。
お市が出立した日の夕餉の席で、笑みを湛えた帰蝶が信長に問うた。兄妹の仲の良さは城内でも有名である為、侍女たちも顔には出さないが信長がどう返答するか気になるようだ。給仕をしながら耳をそばだてる。
「ふん。少々手元に置きすぎたわ」
投げやりとも聞こえる口調で吐き捨てるが、帰蝶は含み笑いを止めない。
「ずっとお傍に置いて手放さなかったのは、殿ご自身ではありませぬか。寂しいからというて、そのような言い草は」
「黙れ、儂を愚弄する気か?」
癇癪が炸裂したが、正妻は慣れた様子で聞き流している。侍女たちの方は首をすくめて、そそくさと信長の視界から出来るだけ外れるように移動した。
「いつかは嫁に出さねばならぬと思うておった。ただ、この信長に少しでも役立つような大名を、探していただけじゃ」
猛然と湯漬けを掻き込むと、信長は憤然とした面持ちで正妻だけに聞こえる声で告げた。
「浅井家ならば、国は京にも近い。あれも幸せになれるであろう」
その声音には間違いなく最愛の妹への慈しみが込められており、帰蝶は静かに微笑むと頷いた。異国の地で生きねばならぬ辛さは、彼女が重々承知している。その中で女としての幸せを掴み取る。お市ならば、掴み取れるのではないかと思った。
贅を尽くした衣装の数々。煌びやかな蒔絵が施された調度品。内政の充実さを窺わせる潤沢な財を惜しげもなく注ぎ、お市の婚礼行列は、北近江を目指して進んでいく。尾張の領民は皆、その豪華絢爛な婚礼行列に目をみはりながら伏し見送った。
侍女として婚礼行列に付き従いながらも、於小夜は下忍びの九郎と連絡を取り合っていた。定期的に九郎が於小夜の許に訪れるという約束事を取り決め、行列はやがて琵琶湖を望んだ。
「於小夜、琵琶湖はなんと穏やかなのか。美しい」
長旅で少々疲れた様子のお市だったが、湖面から吹く爽やかな風に、心が晴れたようである。季節は春であり、陽光がお市の顔を優しく照らし出し、えも言われぬ美しさであった。於小夜も武田の三ツ者という立場を一時ほど忘れ、その美貌と気品にうっとりと見入ってしまった。
(ああ、お市さま。何とお美しいのか)
この永禄十年で、お市は二十歳となった。初めて会ったときは十三歳の可憐な姫が、七年の年月を経て匂い立つような大人の女へと、変貌を遂げている。固い蕾だった白百合は今、北近江で大輪の花を開こうとしている。
於小夜も二十三歳になっていた。忍びとしての使命は忘れていないが、このたおやかな姫の許で暮らすうちに、このままお市の傍にずっといたいと思うようになってきた。その都度、甲斐にいる信玄の顔が浮かび三ツ者としての自分を取り戻すのだが、最近では信玄の顔も浮かぶことが減ってきた。
(府抜けたものよ、私も)
このような姿を、首尾良く柴田勝家の足軽として潜り込んだ小十郎が知ったら、愛想を尽かされてしまう。そこまで思い至ったとき、小十郎の精悍な顔を思い起こし図らずも胸が騒いだ。同じ織田家に仕える者として連絡を密に取り合ってきたせいか、於小夜の中に小十郎に対する特別な思いが芽生えていた。小十郎も今は二十八歳となり、忍びとして盛りの時である。