第36話

文字数 1,321文字

 信長は激怒していた。命からがら京へ帰り、京雀たちの姦しい噂話に耐えることは彼の自尊心を深く深く傷つけた。大切な妹の婿にと、この信長の数少ない同盟者として選んだ長政に裏切られた怒りは凄まじかった。峻険な小谷城は攻め入ろうにも、細く険しい二つの尾根に守られている難攻不落の名城。籠城戦に持ち込もうにも、背後から攻め入るであろう朝倉をまず叩かねばならない。

 敵は朝倉と浅井だけではない。傀儡将軍である義昭が、上杉や武田それに一向一揆の首領とも言うべき石山本願寺といった寺社勢力にまで、
「信長を討つべし」
 という将軍の密書をばらまき、それはより完璧な包囲網になろうとしている。

 信長は怒りつつも焦っていた。朝倉と浅井を相手にしている間に、救援という名目で武田が東海から、上杉が北陸方面から来たら敵の兵力は何倍にも膨れ上がる。己の味方は情けないことに、徳川家康しかいないも同然だ。彼には背後を守って貰わねばならない。

「おのれ、義昭め。傀儡人形は大人しく我が手の内で、踊っていれば良いものを」

 かといって、かつての三好三人衆が十三代将軍義輝を暗殺したような愚を信長は犯さない。まがりなりにも義昭は、己が後見となって十五代将軍位に就かせた男。いくら暗愚とはいえ己の手で処断すれば、世間は掌を返したように非難と嘲笑を浴びせる。

 要求通り将軍の居城も建立してやったし、朝廷に対しても、あばら家同然だった皇宮を立派なものに建て直した。京の治安も回復させた。小うるさい公家達も、金がないために表立って信長に反抗できない。少なくとも京の中は安泰である。あとは手向かう者たちが増えないうちに、討ってしまわねばならない。

 南近江に勢力を持っていた六角家も、浅井家が織田家を裏切ったとの情報を得て密かに信長を討つべく暗躍を始めた。まだ浅井と織田が蜜月だった頃、戦をして負け甲賀の地へと落ち延びた。その復讐を果たすべくまずは浅井に味方し、消耗しきったところを信長と長政の首を討ち取ってやろうと画策した。だが信長は南近江への抑えとして、長光寺城と永原城に己の腹心を守将として配置していた。

 長光寺城を守るのは、織田家家臣団の中でも猛将として名高い柴田勝家。武田家の三ツ者である小十郎が、足軽として潜り込んだ家である。此度の金ヶ崎出兵にも小十郎は参戦し、ほどほどに手柄を立て今は足軽頭に出世した。足軽大将になると部下も増えるが責任も増える。ということは気軽に抜け出せなくなる。今のままの足軽頭という身分が、小十郎にとっては最適であった。

 長光寺城に配置された兵は、千から千五百ほど。柴田ほどの猛将をただの抑えにしておくのは勿体ないと思った信長だが、六角氏が息を吹き返しこの長光寺城を攻め取らんとばかりに押し寄せたので、招集できなくなってしまった。

 不倶戴天の敵である朝倉・浅井を討つのに一兵でも多く集めたかった信長だが、南近江を放置するわけにはいかない。柴田に、現存兵力で六角を迎え撃てと伝令を飛ばした。

 六角氏の旧臣たちに伊賀武士と甲賀武士を合わせたその数、三千以上は完全に長光寺城を包囲した。籠城するしか他に手立てがない柴田勝家は、少ない手勢ながらもよく持ちこたえていた。
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