第25話

文字数 1,731文字

 侍女たちの手で婚礼衣装に着替えたお市の美しさは、言葉では語り尽くせぬものがあった。於小夜と同様に古参の侍女が、あまりの美しさと幼かったお市の成長を目の当たりにし、落涙しそうになったものだ。戦国一の美女と謳われたお市の美貌は、この小谷城はもとより天下に届いている。

 恥ずかしげに目を伏せ夫となる長政の隣に座したお市を見て、於小夜は胸の奥が思いがけず熱くなるのを覚えた。信長が妹のために探した婿だけあって、浅井長政は背も高く、恰幅の良い偉丈夫であった。色白でふっくらとした顔貌は温厚で、お市の相手に相応しいと、素直に思えた。

 世が乱れているために豪華な婚礼の儀式は出来ないが、慎ましやかな婚儀は滞りなく終了した。最後までこの婚儀に反対していた長政の父で、現在は隠居の身の久政は終始不機嫌な表情を隠そうともせず、長政の不興を買っていたが。席の隅に身を置く於小夜は、忍びとして冷静にこの浅井親子の様子を観察し、長政夫妻が寝所に引き取った後に訪ねてきた九郎に、この事を告げる。

「ご隠居は、織田家から嫁御寮を貰うのに反対でございました」

 九郎は今まで耳に入ってきた事柄すべてを、読唇術で語り始めた。
 いわく。
 南近江を治める六角氏に負けた後、長政は最初の妻を押し付けられた。六角氏の風下に立つことに不服を抱いた長政は、誕生した嫡男の万福丸を手許に残し六角家から迎えた妻を実家へ返すと、久政から強引に家督を奪い六角氏と完全に決別してしまった。以後、六角氏とは交戦状態にあるが、此度の婚儀は長政自身が決め久政の口を一切挟ませなかったという。

「越前の朝倉とご隠居は昵懇の仲。できたら朝倉家から嫁を迎えたかったのではないかと、もっぱらの噂です」
「隠居しても、憚りなく口を出す父親か。はて、何処ぞで聞いたような話じゃな」

 於小夜が揶揄したのは、信玄の父である信虎のことだ。彼もまた息子に追放される形で家督を奪われ、隠居した今でも、何かと口を差し挟んでくる。そのことを指摘すると九郎は、これ於小夜どのと窘めながらも、顔はにんまりと笑み崩れている。

「ともあれ未だ六角氏とは交戦状態で、隙あらば、この北近江を攻め取ろうとしております。ご油断召されますな。外には六角氏、内にはご隠居と、長政殿には敵が多うございます」

 九郎はそう述べると一礼し、速やかにその場を去った。ひとり残された於小夜は、どの国に嫁ごうと戦に巻き込まれたであろうお市の姿を思い起こし、密やかに息を吐いた。

 乱世の政略結婚は同盟であるが、時にそれが破綻することもままある。顔を一度も会わせたことのない男女が、互いのことなど何ひとつ知らぬままいきなり夫婦になるのだ。相性が悪いこともあろう。信玄も正妻の三条殿とは嫡男の義信をもうけたものの、夫婦仲が良いとは、お世辞にも言えなかった。

 信長と帰蝶の場合はどうか。信長の許に嫁ぐことが決まった際、斎藤道三は娘に対し、
「信長がまことの大うつけならば、閨で刺し殺して戻って参れ」
 と、一振りの懐剣を与えた。

 信長十六歳、帰蝶十五歳の時である。十七年経った現在、信長は奥向き一切は、正妻である帰蝶に任せ、側室が産んだ男児たちも全て、正室の実子扱いになっている。信長は癇癖が強く、臣下に対しても非常に厳しい。そんな彼が、地位に胡座をかくだけの無能な女をいつまでも正室として据えておかない。帰蝶との間には子が誕生しなかったが、側室との間に生まれた嫡男・信忠の養育を任せているので、帰蝶に対して並々ならぬ信頼を寄せている。

 お市は、兄夫妻の姿をずっと見てきた。この乱世の中、おなごが奥向きをしっかりと支え夫と強い信頼関係を結ばねば、婚家と実家の同盟は儚く崩れ去ってしまうことを、幼い頃より感じ取っている。幸いにも夫となった長政は、お市に対しとても細やかに気を配ってくれる。お市もかつて於小夜から聞いた夫婦の心得を思い出し、夫に尽くした。

 二人は周囲も羨むほど仲睦まじく、政略結婚とは思えぬほどの信頼関係を築いていった。加えて、信長も事あるごとに贈り物を長政夫妻に宛てた。嫁いだ妹を案ずる心優しき兄の顔を見せ、同盟者として長政を心底頼みにしているという手紙を送り、同盟が永く続くことを望んだ。
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