第44話

文字数 1,337文字

「何だ、もう良いのか?」

 この元亀三年で二十七歳になった喜兵衛を見て、
(そういえば武藤どのは、於小夜とよく似た年齢であったな)
 と、庄助はまたも姪に思いを馳せた。

 庄助の妻は五年前に他界し以来、彼は妻を娶っていない。亡き妻との間に子はなかったが、三ツ者になった二人の姪を我が子のように可愛がっていた。

 於小夜の姉に当たる於須恵(おすえ)は、十二年前の第四次川中島合戦時に上杉の軒猿によって討たれた。まだ十九だったと記憶している。庄助の妹で於須恵と於小夜の母は、哀しみのあまりそれからすぐに他界してしまった。

 新井の家系は代々、男女を問わず三ツ者を輩出している。自身に子がない庄助は、尚のこと姪たちが可愛く思えていたのだ。

「拙者の初陣は、十二年前のことだった」

 不意に喜兵衛が呟いた。喜兵衛の初陣も、十二年前の第四次川中島合戦のことであった。当時、もう武藤の家に養子に出されていた喜兵衛は、初陣にあたり久しぶりに信玄の許へ顔を出した。

「初めておなごの肌身を知ったのも、あの時だった。拙者を男にしてくれたあのおなごが、そこもとの姪と知ったときは、腰を抜かしたぞ」

 当時、信玄の侍女も務めていた三ツ者の於須恵は、命じられて喜兵衛と閨を共にした。於須恵が十九、喜兵衛が十五のことである。

 信玄いわく。

「初陣で命を落とすこともある。おなごの味も知らぬままでは、一人前の男とは言えぬ。この於須恵は三ツ者じゃ、初めての相手に打って付けの手練手管を持っておる。おなごの肌身を知り、生き残ってまた抱きたいと思え。それこそが、戦の狂気を忘れさせてくれようぞ」

 喜兵衛は十五で戦もおなごも初陣を果たした。喜兵衛は生き残り、男にしてくれた於須恵は、海津城付近で上杉の軒猿に斃された。第四次川中島合戦後、喪に服していた庄助から話を聞いて初めて於須恵が彼の姪と知った。自分より二つ上の於小夜が於須恵の妹と知ったときには、彼女はお市の侍女として織田家に潜入していたのだ。

 喜兵衛は十八で妻を迎え、男児二人に恵まれた。妻の目を盗み女遊びも楽しんでいるが、初めてのおなごは忘れがたい。こうしてたまに庄助と二人きりになると、脳裏に於須恵を思う。十二年経った今では、顔が思い出せなくなってきたが、女を抱いているときだけは鮮明に思い出せた。

「そこかしこに転がっている兵たちの中に、今日が初陣だという者も居ったろうな」

 ぐいと竹筒を傾け、濁り酒を呷る喜兵衛。その声にはどこか、哀しみがこもっている。

「拙者もそうだが、妻子を国元に残し異国の地で果てるなど、さぞ無念じゃろうて。庄助どの、そこもとは死ぬな。拙者を男にしてくれた於須恵どのは、もう居らぬ。この世の何処にも居らぬのだと知ったとき、妙に於須恵どのが恋しゅうなった」

 庄助はじっと聴き入っている。生きている者は戦勝の笑い声を挙げ、死んだ者は物言わず虚空を睨みつけている。於須恵の亡骸は海津城近くの山中に埋められているが、庄助もいつ見知らぬ土地で人知れず屍を晒すか判らぬ身。だが喜兵衛は、死ぬなと言う。

「拙者は、於須恵どのによって一人前の男になった。そのとき、惚れたやもしれぬ」

 喜兵衛の言葉は、最後は小さくなっていた。それでも忍びである庄助の耳には、しっかりと届いている。
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