第58話

文字数 1,616文字

 周囲の人間たちが驚くほど冷静に、淡々とお市は事実を受け入れた。

 あまりにも素っ気ない反応に、信包は
(やはり腹を痛めた子ではないせいか、涙ひとつ浮かばぬな)
 と思いつつ去った。

 侍女たちも信包と同じ思いを抱き、姫しか誕生しなかったことに安堵した。もし男児が誕生していたら、万福丸と同じ運命を辿っていた。例え実妹の子であろうと、男児であれば容赦はしない。それが乱世における鉄の掟である。

「みな、しばし外すように」

 ぼんやりした表情のお市が気になったが、命令には逆らえず次の間に下がる。やがて、かすかにすすり泣く声が聞こえてきて、侍女たちは自分たちの浅はかさに気付いた。

「申し訳ございませぬ、殿。約束を(たが)えてしまいました……」

 お市は両袖で口を覆い、懺悔の言葉が聞こえぬようにしていた。だが忍びである於小夜には聞こえている。血を吐くような懺悔は、今まで堪えてきた涙と共に外へと押し出されていく。

「殿、お許しを。どうかお許しを」

 於小夜は万が一に備えて、踵を上げた。もしお市が自責の念のあまりに自害を試みようものならば、忍びだという正体が露見することを承知で止めに入ろうと。いつでも飛び出せるよう、全身にさり気なく力を込める。

「誰か、姫たちをここへ」

 いつの間にか嗚咽は止んでおり、意外にしっかりとした声が襖越しに響く。どうやら自害は思い留まったようだ。安堵のあまり於小夜は返事が遅れ、三人の姫たちを呼びに行く役は一番年若い侍女が買って出た。

「お市さま、姫さまたちをお連れいたしました」

 まだ乳飲み子のお江だけは乳母に抱きかかえられていたが、長女の茶々と次女の初は背筋を伸ばして母の居る部屋に入った。やがて乳母も退室させられる。

「二人ともよく聞きなさい。兄上が、処刑されました」

 淡々と述べられる事実。小さく悲鳴を上げたのは初だ。茶々は一瞬だけ眉根を寄せたが、取り乱したりはしなかった。

「これで浅井家の血を引く者は、僧籍に入った万寿丸を除いて、姫たちだけになりました。よいですか。おなごは他家に嫁ぎ、子を為します。そなたたちが長じて子を産むと、その家の子であると同時に浅井家の血が流れていることを忘れぬように。よいですね、亡き父上の血を必ずや残すのですよ」

 初にはまだ難しい話らしく得心がいかぬ顔であったが、茶々は母が言わんとすることを理解した。自分たちは、おなごであるゆえに生かされた。ならばそれを逆手にとって、何としても浅井の血を次世代に繋げよと。そのためには、生きねばならぬ。どこへ嫁がされても恥ずかしくないよう、浅井家の名前を汚さぬよう立派に生きねばならない。お市はそう教育する覚悟だ。聡い茶々は、早くもそれを肌で感じ取っていた。

 姫たちが出て行った後、侍女たちを部屋に呼び戻す。目の縁は赤いが、自害を考えるような気弱さは消え失せていた。

――姫たちのために、生きてくれ。

 長政と交わした約束のために、お市は前を向く決意をした。

 年が明けた天正二年。信長は正月の祝賀を開いた。これは先年、朝倉と浅井を滅ぼした祝勝の宴も兼ねている。宴もたけなわになった頃、信長の前に三方が三つ並べられた。それには白絹の布が被せられており、何やら盛り上がっている。

 小姓たちが丁寧にその布を取ると、金箔をまぶした頭蓋骨が現れた。この頭蓋骨たちは朝倉義景、浅井久政・長政親子のものである。頭蓋骨はどこも損なわれてはおらず、丁重に扱われていた。

 当時は討ち取った首を荼毘に付し、その遺骨を七年間供養することで成仏出来ると考えられていた。ゆえに信長もその作法に則り、討ち取った敵とはいえ、正月の宴を共に過ごすという供養をしたのだ。

 何にせよ長政はお市の夫で、義弟だった男。丁重に供養する心が信長にもあったのだ。

 お市は信長を許せぬまま、信包の世話になる。

 これからしばらくお市は、歴史の表舞台から姿を消す。彼女が再び表舞台に立つとき、歴史は大きく揺れ動いた。
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