第35話

文字数 845文字

 共に出陣している徳川家康も殿を買って出ようとしたが、これは信長に強く反対された。

「徳川どのには、まだまだ共に戦って貰わねば困る。ここは我が手の者で充分でござろう」

 浅井長政が敵に回ってしまった以上、信頼できる同盟者は家康のみと言って良い。殿を務めさせて万が一のことがあったら、これから始まるであろう義昭の命令に従った諸大名との戦で、不利になる。只でさえ信長の味方は少ないのだ。貴重な同盟者を喪うわけにはいかなかった。

 新緑が目に眩しい季節である。噎せ返るほどの若葉の匂いが立ちこめる中を、織田・徳川両軍は岐阜を目指して逃げに逃げた。山中家と伴家の忍びたちも逃げる主君を助け、殿を務める木下軍もぼろぼろになりながら何とか逃げ切った。

 勇猛果敢に攻め入る信長が、ここまで無様な退却劇を演じることになるとは予想していなかった。この退却を金ヶ崎の退き口といい、信長に屈辱と憎悪を植え付けた。

「織田はんが、朝倉はんと浅井はんに負けたそうで。そらもう、完膚無きまでにな」

 京雀の口は姦しい。少し前までは三好三人衆たちから守ってくれた英雄ともてはやしていたくせに、掌返しの早さは見事のひと言に尽きる。信長の耳にもこの声は届いているが、事実は事実と受け止め、無理に黙らせるような愚策はとらなかった。

 庶民を弾圧すれば、せっかく上手くいっている京都運営に支障が出る。その代わり、朝倉と浅井に対する憎悪は日を追うごとに膨れ上がっていった。特に妹婿の長政に対する怒りは凄まじく、必ずや小谷城を落としてみせると決意させてしまった。

 しかし信長は朝倉と浅井だけを相手にしている事は出来なかった。名ばかりの将軍と高を括っていた義昭の内命に従った諸大名や石山本願寺など、反信長包囲網は静かに数を増やしていった。

 山中家、伴両家の忍びたちが報せてくる最悪の情報は信長を追い詰め焦らせるが、彼は口惜しさに歯噛みしつつも眼前の戦に対応せねばならない。じわじわと真綿で首を絞めるかの如く、信長の周囲は敵で埋め尽くされていった。
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