第54話

文字数 1,207文字

 迫り来る織田勢の怒号。

 長政は甲冑姿のまま、同じく武装しているお市と向かい合っていた。木下秀吉が使者として来ている今、彼と共に織田へ戻るよう説得しているのである。だがお市は涙ながらに、頑として首を縦に振ろうとはしない。

「お願いにございます、殿と共に自害させてくださいまし。わたくしは浅井のおなご、殿の正室にございます」
「ならぬ。万福丸は一足先に落ち延びさせた。また次男の万寿丸の存在は、織田どのは知らぬ。あとはそなたと姫たちだけじゃ、生きよ」

 首を横に振り、お市は両手を床に付けた。長い艶やかな黒髪が彼女の面を覆い隠し、細い肩は震えている。

「何ゆえ、そのように酷なことを仰せになられますか殿。殿亡き後、おめおめと織田家に戻れと? わたくしは、浅井長政の正室にございます。お願いでございます、共に自害させて下さいませ」
「ならぬ!」

 初めて長政が、お市に向けて怒鳴りつけた。これにはお市どころか、隣室に控えていた於小夜をはじめとする、織田家から付き従ってきた侍女たちも驚きの顔になった。

 輿入れ以来、長政はお市に対して一度も怒声を上げたことはない。万事穏やかな顔と声音で接してきていただけに、侍女たちも善きお方が婿になってくれて良かったと安堵していたのだ。初めてのことに侍女たちが控えている隣室が、一瞬だけにざわついた。

 於小夜は万が一お市が自害するならば隣室へ駆け込み、自害を阻止しようと考えている。お市が織田家に戻れば、自分も当然ながら織田家に戻る。となれば、極秘に夫となった小十郎とも再会できる。そんな打算がわずかでも胸を占めたことに、彼女は幾ばくかの罪悪感と自己嫌悪を覚えた。

「そなたが儂と共に自害したら、誰が姫たちに儂の生き様を伝えるのだ? 姫たちの父は決して誰にも後ろ指を指されることがない、恥ずべき事など何ひとつなかったと、誰が伝えるのだ。そなたしかおらぬのだ、お方。それに、お江はまだ乳飲み子。顔も知らぬ父のことを、母であるそなたが語ってやるのが務めというもの。頼む、三人の姫たちのためにも生きてくれ」

 三女のお江とほぼ同時期に、側室が次男の万寿丸を出産した。そのとき既に織田家とは手切れになっていたため、長政は密かに寺へと逃がし僧侶として一生を送らせるよう手筈を整えてあった。

 信長は万寿丸の存在を知らない。長政は嫡男の万福丸が捕らえられたとしても、浅井家復興の芽を密かに育てることに成功したのだ。

(三人の姫たちはおなごゆえ、いずれは織田家の姫として嫁いでいくだろう。その時に、父のことを少しでも忘れぬために何としてもお方には生きてもらわねばならない。お方もまだ若い。再嫁して、生き延びて欲しい)

 そんな一心で、長政は懇願を続ける。根気よく粘り強く、ひと言を噛んで含めるように言い聞かせる。それでもお市は頑なに夫とともに果てるとの覚悟を崩さない。しかし夫の説得は、少しずつ彼女の心に染み込んでいく。
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