第61話

文字数 1,122文字

「やはりそうですか。ここ数日、つわりの様子がみえましたから。わたくしの目を誤魔化せるとでも思いましたか?」

 姫を三人も出産したお市を騙せなかった。面を上げるように言われ、女主人と目を合わせる。意外にも穏やかな顔つきであった。内心は判らぬが、表面上は普段通りだ。

「相手はどなたですか?」
「柴田勝家さま配下の、足軽頭を務めている大原小十郎どのです」
「おお柴田どのの配下か。その大原とやらは、ややこが宿っていることを知っているのですか?」

 肯定すると、お市は少々困った顔になった。

「……於小夜は、宿下がりを望みますか?」

 身重の身体では、侍女の仕事をこなすことに差し障りがある。於小夜は忍びなので多少のことは平気だが、それでも子を腹に宿した経験は初めてのこと。普段の動きに制限が出るため、妊娠が判った侍女はみな宿下がりをしてお市の許を去った。

 武田信玄亡きいま、於小夜の行動は彼女の意思ひとつ。越前にいる小十郎の許に行きたい気持ちもあるが、お市の傍にいたい気持ちもある。

「できれば、このままわたくしの傍にいてほしいのです。浅井家に嫁ぐ以前から、わたくしに仕えている侍女はもう於小夜のみ。心を許せる相手が居なくなるのは、心許ないのです」
「お市さま」

 現在の於小夜は、老女という侍女の仲で最高位の立場にある。最年長であり仕えている年数も長いので、自然と重要な立場になってしまった。武田家から密命を受けて潜り込んだ筈なのに、いつのまにか心までも織田家の侍女になってしまった。

「越前国にいる夫に相談してみないことには。私の一存では、なんとも」
「それもそうですね。もし、わたくしの傍に居られるのであれば、祝言もきちんと挙げなければ」

 祝言。忍びである二人たちにとって、そんな人並みの儀式をさせてもらえるとは思っていなかった。お市からすれば、長年仕えてくれている於小夜への、心尽くしなのだが。

「媒酌人のこともありますし、祝言はご遠慮申し上げます。このように先に身重となってしまった身。仰々しい儀は、却って身体の負担になりかねません」

 吐き気が突然襲ってくる今、醜態をさらしたくはない。於小夜もそこはおなご、恥じ入る気持ちはあった。

「お市さま、私には信濃に叔父が居ります。ややこを産んだ後、またこちらに戻ります。一時的な宿下がりを、お許し願えませんか?」
「必ず戻って参りますか? わたくしの傍に」
「お約束いたします。産み月を終えた後、必ずや」

 こうして於小夜はつわりがおさまり、腹が少々目立つ頃合いになった皐月のある日、人知れず古府中へと旅立った。

 出立は小十郎にも伝えてあるのだが、どういうわけか彼は現れなかった。代わりに佐助が、その辺に居る農夫の格好で現れた。
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