第31話

文字数 1,037文字

 元亀元年四月、信長は浅井家と同盟を結ぶ際に『朝倉家と争いを起こさない』という条件を呑んだがこれを破り、朝倉領に侵攻した。将軍への拝謁のために上洛しろという命令を幾度も無視され、遂に堪忍袋の緒が切れたためだ。信長の性格から考えて、よく我慢をした方だ。

「もう我慢がならぬ、朝倉を攻め立てよ!」

 信長の脳裏に、ちらと長政に嫁いだお市の顔が浮かんだが、長政は裏切る真似をすまいと半ば己に言い聞かせるようにして、妹の幻影を追い払った。すぐさま諸将を招集し、軍評定が開かれる。集まった諸将は朝倉を攻めることに異存はないが、どちらとも同盟を結ぶ浅井がどう出るか気にかかっていた。だが誰もが信長の逆鱗に触れることを恐れ、浅井の名は出さない。みな粛々と信長が主張する、朝倉攻めの内容を聞いていた。

「将軍の勅命をことごとく無視した無礼は、万死に値する。者ども、戦の支度を整えよ」

 凛々と響く号令。諸将は戦の支度を始める。出兵は徳川家康にも伝えられ、軍備を整えると信長とともに越前の敦賀(つるが)に進軍した。

「織田徳川連合軍が、金崎城に迫って参りました」

 斥候に出していた朝倉配下の忍びが義景に告げると、彼はその忍びに浅井へ行くよう命じた。織田を裏切り、朝倉の味方についてほしいとの密命を告げて。既に織田が朝倉を攻めたならば味方すると内応を得ていたが、あまりも素早い織田の猛攻だった。朝倉家だけでは対応しきれずに、義景は早々と浅井に援軍を求めた。

 小谷城にその忍びが来た時、長政は深い溜息を吐いた。傍らに控えるお市を見遣り、目顔で本当に良いのかと問う。お市は夫の視線の意味に気付き、白皙の面に一瞬だけ紅を刷かせると、強い意志を湛えて頷いた。

「我らはただ今より朝倉家にお味方する。織田軍が金崎城攻略を始めたならば、我らが後ろから挟み撃ちにいたす。ただ、表向きは織田の援軍に向かうために発ったことにするゆえ、我らの真意はこれにあると思うてくれ」

 長政はかねてより用意してあった物を懐から取り出すと、その忍びに手渡した。それは両の口を紐でしっかりと縛った小豆袋であった。つまり朝倉・浅井家で織田軍を挟撃するという意味である。

「我が殿に、しかと申し伝えます」

 忍びは頭を下げると速やかに小谷城を抜け出し、一乗谷城にいる義景の許へと急ぐ。お市はこの場にいてその小豆袋の意味することを知っていたが、何も口を挟まなかった。女は後方支援が当たり前の時代である。お市は涙を呑んで、兄と夫が争うことを見つめねばならないのだ。
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