第27話

文字数 1,328文字

「ふむ。義昭さまが、信長に」

 報せを受け取った信玄は短くそう呟くと一人、小座敷に籠もり思案を始めた。こういうとき相談できた軍師・山本勘助と、実弟であり腹心の臣下であった武田信繁は既にこの世にない。永禄四年の第四次川中島合戦で、信玄は己の両翼をもがれてしまった。

 まだ高坂弾正忠昌信や馬場美濃守信春といった重臣は存命しているが、彼らは戦場でこそ力を発揮する。このように政治向きな話は長い間、今は亡き勘助と信繁を交えて根回しをしてきた。

(ああ、二人が生きておれば)

 埒もないことと充分に判っているが、そう内心で嘆息せずにはいられなかった。ちなみに現段階で将軍位にあるのは、義栄である。信玄も建前上は、幕府将軍である義栄に忠誠を誓う身ではあるが、今少し京に近い国に生を受けていたならば、信長などに義昭を奪われなかったものを、と口惜しく思う。
(なれど還俗したての世間知らずな若造が、そう易々と信長を制することなどできぬ。いずれ奴等の蜜月は、破綻するときが来よう。その時が来たら、儂は……)

 いつも向こう正面に弟の信繁、右斜めに勘助が座して策を練ってきた。がらんとした、やけに広く感じる八畳敷の小部屋の中で信玄は、ひとり死者たちの面影を追いながら、今は時が熟すのを待つしかなかった。

 信玄の読みは当たっていた。

 永禄十二年に信長が畿内にて三好三人衆を打ち破り、松永久秀が軍門に降った。これにより後ろ盾を喪った将軍義栄は、阿波国へと逃げたが病死し、遂に義昭は十五代将軍の宣下を受けた。だが、いざ将軍になっても、命令ひとつ下すにも一々信長の許可を得ねばならぬと言われる始末。

 信長の言い分はこうだ。

「儂が居なければ将軍になれなかったのだ、大人しく儂の言うことを聞いておれ」

 義昭は、名ばかりの将軍という立場に甘んじねばならぬ口惜しさに歯噛みしつつも、従わねばならなかった。将軍といってもそれは形骸化しており、諸大名を従わせるだけの財力はない。信長は濃尾平野の肥沃な土地を領土として持ち、種子島(火縄銃)を製造する堺商人たちを手懐けていた。また、楽市楽座という画期的な手法で外から商工人をどしどし国内に受け入れ、国庫は大いに潤っていた。

 どんなに口惜しい思いをしようと、潤沢な財力を誇る信長に頼らなければ己の屋敷すら建てられない義昭なのである。それでもささやかな反抗として居館である二条城を建てろと命じたが、それ以上は表立って何も言えなかった。

 このまま義昭が不満を持ちつつも信長の風下にいれば、見せかけの平穏は続いたし浅井家に嫁いだお市も幸せに暮らせていただろう。だが、将軍家の正統な血筋という自尊心が信長を許さなかった。

「将軍たる予が、何ゆえ一大名の信長の言うことを聞かねばならぬ。予は天子さまより将軍宣下を賜った身ぞ!」

 ふつふつと湧き上がる不平不満の思いは、やがて抑えが利かなくなり、与えられた二条城でこっそりと密書を認め、全国の有力武将へと送った。武将だけでなく、全国で勃発する一向一揆の総元締めである石山本願寺にも。そして以前から信長を嫌い抜いていた朝倉家と上洛を目指す上杉家に武田家、あろうことか浅井家にまで反信長包囲網を決起せよという密書を送りつけたのだ。
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