第16話

文字数 1,078文字

 お市はこの時代としては婚姻が遅い方であるが、信長は頑としてこの美しく成長した実妹を嫁に出そうとしない。いや出したくとも美濃攻略という大仕事のために、そこまで手が回らなかったというのが実情である。いずれにせよ、お市の婚姻話は美濃攻略が終了してからということだ。

 今も信長は稲葉山城攻略に向けて美濃衆の内部分裂を目指し、幾人かに声を密かにかけ、そそのかしている。それは最初は成功しなかったが、徐々に信長の猛攻を凌げなくなってきた為に、尾張方に内応するようになっていった。そして遂に、永禄十年に堅牢な山城として信長の眼前に立ち塞がってきた稲葉山城を陥落させた。


 龍興は北伊勢の長島へと逃げ込んだが、大名として再び表舞台に名を馳せることはなかった。長年の懸案となっていた美濃攻略がようやく終わり、信長は意気揚々と井ノ口を岐阜と改め、尾張・美濃の二国を治める大名となった。

 稲葉山城陥落の報せが新たな本城である小牧山城にもたらされた夜、於小夜が眠る侍女部屋の闇が微かに揺れ動いた。

(おや?)

 元々深く眠っていなかった於小夜の意識が、目覚めた。布団の中に忍ばせていた短刀を音もなく掴むと同時に、於小夜の頭上に影が差し囁き声が降ってきた。

「於小夜、そのままで良いから聞け」

(あ、小十郎どの?)

 越後国の上杉を探りに行っていた筈の小十郎が、連絡役を買って出ているとは思っていなかった。それだけに不覚にも思わず声を上げそうになって、小十郎の大きな手に口を塞がれてしまった。

「修行不足だな於小夜。城勤めで府抜けになったか?」
 小十郎の言葉に揶揄を感じ、於小夜は闇の中で頬を朱に染めた。確かに侍女として暮らして早五年。織田家に飼われているであろう忍びたちに正体を看破されずにきたのは、ひとえに一介の侍女になりきっているからだ。それにしても小十郎は、よく忍びの目をかいくぐって於小夜の元まで来られたものだ。

「それを言われてしまうと、返す言葉がございません」

 二人の会話は読唇術によるもので、すぐ傍で眠っている同僚たちに、その会話を聞き取ることはできない。

「しかし小十郎どの、上杉家を探っておられたのでは?」
「川中島を巡る上杉との争いには、一応の収束がついた。俺は昨年から今川家を探っていた」
「今川家を?」
「うむ。若殿が今川と結託し、謀反を図っているとの噂が流れてな。真偽を探るため。それも、もう終わった」
「終わったとは、まさか」
「若殿は、御屋形さまの御心に背こうとされた。傅役の飯富(おぶ)虎昌どのをはじめとする側近が中心になって、今川と通じていたらしい。その者たちの処分も、終わった」
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み