第20話

文字数 1,441文字

「兄上さま、お待ちくださいませ」

 お市の制止も聞かず信長は二人に命じると、忍びとお千賀の遺体は部屋の外へと運び出された。お千賀は、一ヶ月前に召し抱えられた新参者であった為、於小夜と同室ではなかった。では、あの時なぜ男忍びが、於小夜のいる部屋に来たのか。考えられるのは男忍びが、部屋を間違えたのだろう。

 お千賀が寝ていた部屋は、廊下を挟んで真向かいの部屋だ。於小夜たち三ツ者もそうだが、外から仲間を引き入れ密談するときに自分がいる部屋の前に、こっそりと小さな目印をつけておく。あの時は小十郎が先に城内に忍び込み、侍女部屋に来た。目敏く小十郎はお千賀の目印を見つけ、自分たち以外にも忍びがいることを知り、それを於小夜の部屋の前に残し、始末したと考えられる。

(今後は、小十郎どのも織田家に仕えるというが、果たして織田家の忍びはどれくらい居るのだろうか?)

 先程は小者だったが、口取りや草履取りなど、身分の低い雑用係はごまんといる。その中でどれが忍びかは、正直言って判らない。自分も小十郎も正体を悟られぬよう、注意せねばならぬ。遺体が片付けられると、信長は当初の目的を思い出したとばかりに表情を和らげ、妹の方に向き直った。

「市、そなたの輿入れ先が決まったぞ」

 遂に来たと、お市の身体が強張った。この年、彼女は二十歳とこの時代の女性としては随分と晩婚であった。七年前、於小夜がこの織田家に潜入してすぐに、婚姻とはどのようなものかと問われたことがあった。顔も知らぬ男女が夫婦として暮らすことに、お市は不安を感じていた。

 顔色を悪くした妹などお構いなしで、信長はその場に腰を下ろすと、茫然としている女たちを見渡す。

「北近江一帯を治める、浅井(あざい)家じゃ。京にも近く、琵琶湖の恵みで土壌も豊かと聞く。浅井家の当主、長政がそなたの婿になる。如何じゃ?」

 如何と言われても、拒否権などあるわけがない。顔も気性も知らぬ男に嫁ぐことは、この時代の女性ならば当たり前のこと。

 一瞬だけ、於小夜に視線を走らせたお市は手をつき、
「どうぞよしなに、お取りはからいくださいませ」
 と告げ、深々と頭を下げた。

「よし、この話を正式に進めるぞ。そなたたちは、ただちに輿入れの支度を始めるのだ。この信長の妹の輿入れ、他大名たちが腰を抜かすような、立派なものにしてくれようぞ」

 来た時の怒りようはどこへやら。莞爾として笑うと、上機嫌で信長は妹の私室を出て行く。嵐が過ぎ去ったかのような空気が流れ、お市は侍女たちに支度を調えるよう告げた。現在お市に仕えてくれている侍女たちは、そっくりそのまま浅井家に行くこととなる。しかし於小夜は、自分がこのまま浅井家に付き従って良いのか、判らない。ともあれ、甲斐国にいる信玄に、婚姻による織田・浅井両家の同盟が結ばれたことを、報せねばならない。

 僅かな時間を利用して密書を認め、これを小さく折り畳むと、上から蝋をかけまわし、封とした。急いで厠へ行き、懐から飼い慣らしている鼠を一匹出すと、密書をしっかりと喉の辺りに括り付け、刀鍛冶師の清四郎の元へと走らせる。

 忍術には、動物を使役することも大事なこととされている。鼠の他にも犬や猫、鳩なども飼い慣らし、密書のやり取りや目眩ましなどに役立てる。先ほど於小夜が放った鼠は、丸々と太ったドブネズミなので城の内外をうろついていても怪しまれない。無事に密書が届くように祈りながら、夜を迎えた。さっそく甲斐国へと飛んだらしい若い忍びが、於小夜の枕頭へ現われた。
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