第60話

文字数 1,183文字

「あ、待ってくだされ」

 不意に於小夜は夫の腕から逃れ背を向けると、物音を立てぬように少し場を離れ嘔吐する。茫然とその仕草を見守っていた小十郎だが、やがてひとつの思いに行き着いた。

 それは、於小夜も同様であった。

 お市も、何度かこのように吐き気をもよおしていたことを。そしてここ一、二ヶ月ほど月の障りがないことを、彼女は自覚していた。

「……まさか、ややこが?」
「どうやら、そのようです。お市さまも、同じことが」
「そうか。では、尚のこと俺たちのことを認めて貰わねば。俺は頭領さまにこの事を伝える。そなたは一日も早う、お市さまに伝えてくれ」
「はい」

 月の障りが来ないと気付いた時から、もしやとの思いはあった。子が先に出来たなど、お市が聞いたらふしだらと軽蔑するかもしれない。

(それでも、この腹に宿ったややこを産みたい)

 自覚した途端に、於小夜はおなごではなく母になった。そうなると肝が太くなる。

「そろそろ戻るぞ。そなたも身体を冷やしては、ややこに障る」

 小十郎もはっきりと実感はないが、妻の身を案じる程度には妻の懐妊を理解した。夜陰に紛れ於小夜は岐阜城であてがわれた侍女部屋に、小十郎は主君の柴田勝家が最近守護を任された越前国へ向けて走り去る。自分の住居に辿り着いた小十郎は、すぐさま於小夜のことを密書に(したた)め、鳩の足に括り付け飛ばす。やがて夜が明け、信長への参賀も済ませたお市一行は、逃げるようにして信包が護る安濃津城へ戻った。

 道中、幾度か襲い来るつわりの症状を何とか周囲に気取られずにやり過ごす。しかし、侍女たちの中に出産経験がある者が居なくなったとはいえ、母親の目は誤魔化せなかった。

「於小夜、わたくしに隠し事をしておりませぬか?」

 寝支度を手伝う於小夜に、お市は何気ない口調で尋ねてきた。他の侍女たちはすべて下がらせ、於小夜に不寝番の役が回る機会を待っていたかのように。於小夜は思わず息を呑んでしまった。忍びとしては失格なのだが、侍女としてはこの反応は正解だ。

 じっと目を見つめられ、観念する。小さく息を吐くと、両手をついて頭を下げる。

「ご慧眼、恐れ入ります。お市さま、私はこのたび再嫁を決めました」
「そうですか、ついに再嫁を決めましたか。思えばわたくしの傍に仕えて早、十三年。嫁ぎ直しても、誰も咎めはしません」
「そ、そのことなのですが、あの」

 演技ではなく本当に言いにくそうに、於小夜は身を捩らせる。小十郎の前ではお市に告げると言ったが、いざ目の前にすると怖じ気づいてしまう。

 お市は黙っている。まるで待っているかのように。

「お市さま、ふしだらなおなごと軽蔑されるかもしれませぬが、私の腹にややこが宿っております」

 沈黙が降りる。

 うなじの辺りに感じる、お市の視線が痛い。息苦しい、妙にねっとりとした空気の中で、女二人はひと言も発さずに彫像のように動かなかった。
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