第1話

文字数 1,308文字

 篝火がいくつも焚かれ、まるで昼のように明るいその一帯で、彼らは陽気に酒を飲み騒ぎ、浮かれていた。誰もが半武装の態で酒を呷り、中には陽気に歌い踊る者もいる始末。

「ははは、愉快愉快。織田の青二才は今ごろ、清洲の城にて震え上がっておるだろう。皆の者、今宵は前祝いじゃ。存分に緊張をほぐしておけ。明日は大うつけの首級(しるし)を肴に、また祝杯をあげようぞ」

 そう上機嫌で旗本衆と酒を酌み交わすのは、東海一の弓取りと謳われる今川義元その人であった。京の公家とも縁の深い彼は、お歯黒の歯を見せながら気の早い祝杯を、ここ桶狭間であげていた。

 永禄三年五月一日。麾下の諸将に出陣の命令を下した今川義元は、自身はゆるりと十日に駿府を発ち上洛の途についた。行く先を阻むは、尾張国を治める織田信長。今川義元と織田家の先代当主・信秀は何度も刃を交えた。信秀は近隣にその名を知られた剛の者で、義元の攻撃を幾度も退け続けてきた。

 しかし。

 天文二十年三月三日、信秀が急死した。跡目を継いだ嫡男の信長の大うつけぶりは天下に響いており、義元は代替わりした尾張国など簡単にひねり潰せると、一人笑みを浮かべていた。事実、義元はその自信を胸に京を目指して西へ進み尾張国に入ると、織田家の出城などを次々と落としていった。

 五月十八日には丸根、鷲津の両砦を落とし、信長の本城である清洲城まであとわずか、というここ桶狭間に本陣を置いた。あまりの快進撃ぶりに大いに気を良くし、酒宴を開くに至ったのだ。自分の威風の前に手も足も出ず、明日の総攻撃で尾張国を差し出すだろうと、内心でほくそ笑みながら美酒を呷っている。

 総大将がこの調子なものだから、足軽に至るまで本陣の士気は緩みに緩んでいる。誰もが此度(こたび)の勝利を信じて疑わず、多少酒気が残っていようと数で勝る今川軍の勝利は間違いないと、全軍の空気は楽観的なものだった。

 尾張国は城内も城下も緊迫した空気に包まれている。民衆は荷物をまとめて逃げ出す者も多く、将の中には信長に見切りをつける者もいたほどだ。そんな城下町に、一人の歩き巫女がふらりと現れた。顔を見ると、まだ若い。十五、六というところだろうか。逃げる機会を失った城下の者が、歩き巫女に縋るようにして祈祷を求める。歩き巫女は厳粛な面持ちで祝詞を上げ、幾ばくかの銭を受け取った。

 旧暦五月は、もう夏である。菅笠の縁を押し上げた歩き巫女は懐から手拭いを出すと、そっと額に滲んだ汗を拭き取った。夏の昼は長けれど、夜間の女の一人歩きが危険なのは、今も昔も変わりはない。もっともこの歩き巫女が、仮に追いはぎや夜盗に襲われたとしても、身を守るくらい朝飯前だが。

(さて、この辺で宿を取ることにしよう)

 宿と言っても住人が逃げ出した後の、空き家である。一応まだ人目があるので戸を叩き、人の気配がないことを確認してから引き戸を開け、中に入る。家人が逃げ出してかなり経っているのか、上がり框にうっすらと埃が積もっていた。だが彼女は気にせず囲炉裏の傍に菅笠を置くと、ごろりと横になり、すぐに軽い寝息をたてはじめた。城下町は、城へ火急の報せを届ける馬蹄音が響くのみで、人の声などないと言って良い。
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