第64話

文字数 1,183文字

 やがて闇は白み、鳥たちがさえずり始める。

 この頃になるとようやく於小夜も落ち着いてきたらしく、呼吸を抑えられるようになった。佐助の呼びかけにも応じられるし、何よりも血色が戻った。

 血で汚れた着物を脱ぎ、荷物の中から新しい着物を出す。野良着だった二人は、今度は旅の商人へと変化した。菅笠を深くかぶり、足取りも旅人のそれへと変化させる。二人は少し猫背になり夫婦へと化け街道を歩み始めた。

 織田家が朝倉家を滅ぼしたため、越前国は急速に織田家の支配下に置かれていく。それを是としない農民たちは一向一揆を蜂起し、頑強に信長の支配に抵抗した。信長は鬼神の如くこれら一向衆を弾圧し、男は斬殺し見目良い女は、岐阜や美濃へ奴隷として送った。

 血生臭い中を、二人は柴田勝家が指揮する陣まで急ぐ。九頭竜(くずりゅう)川沿いにある村に於小夜を預け、佐助は単身小十郎を探して柴田勝家の陣に潜り込んだ。一向衆と戦う足軽頭としての顔を演じている小十郎に、味方のふりをして近付き於小夜の近況を手短に伝える。

「そうか、無事であったか」

 道中襲われたことを聞いたときは血の気が引いたが、今は安全であると聞いて安堵した。さっそく夜に陣を抜け出して於小夜を訪ねると、彼女は愛おしそうに膨らんできた腹を撫でていた。

「小十郎どの」
「於小夜、よくぞ無事で。ややこの乳離れが済むまで越前で過ごせ。その後は頭領さまが子を預かり、忍びにするそうだ」

 夫婦になる条件として、子が出来たら男女を問わず庄助に預ける約束をした小十郎。於小夜もそれを承知したが、いざ腹にややこを授かったとき母としての思いが胸の内を支配した。

 まだ見ぬ我が子だが、無事に産み落とし乳をあげれば離れがたい情が湧く。庄助も小十郎も於小夜本人もそれは承知しているが、頭で判っていても本能が腹の子と別れることを拒んだ。

「どうしても、このややこを叔父さまに預けねばなりませんか」
「それが頭領さまとの約定だ。そなたも納得したのではなかったか?」
「なれど……なれど、この子の母は私です。私と小十郎どので、この子を忍びに育ててはいけませぬか?」

 於小夜の声には並々ならぬ必死さがある。女から母へ変貌した彼女は、例え実の叔父であろうと我が子を取られたくないのだろう。一度は納得したはずの別れを、何としても反古にしたくてたまらなくなった。

「ならぬぞ於小夜。この約定を反古にするとあらば、俺はそなたと夫婦でいられなくなる。頭領さまとの約定は絶対だ。聞き分けよ、於小夜」

 唐突に彼女は、お市が長政に城を出るよう説得されても頑強に拒み続けた心情を理解した。(ことわり)ではなく感情が心を埋め尽くし、納得がいかなくなってしまうのだ。

 女特有の感情が先走る現象を、今まで於小夜は自分だけはそうではないと思っていた。だが、今こうして選択を迫られたとき、自分も普通のおなごと同じなのだと思い知らされた。
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