第32話

文字数 1,159文字

 於小夜は苦悩する長政夫妻を間近で見ている。久政のお市に対する態度がようやく軟化した。自分が動いてこの小豆袋を奪っても良いのだが、そんなことをすれば、お市がやはり翻意したと疑われてしまう。

 於小夜もまた、苦しみの中にあった。お市と共に生きていたい。だがお市が苦しむ様は見たくない。武田の女忍びとしては失格なのだろう、こんな思いを抱くことは。だが帰還命令も出ていないのに、辛いからといって勝手に出奔することも出来ない。

(どうしたらお市さまのお心が安んじられるのか。ああ小十郎どの、私はどうしたらよいのか)

 苦しい思いを小十郎に吐露したかったが、彼が表向き仕えている柴田勝家は今回、越前攻めに参加している。気付かれずに往復することは可能だが、お市は片時も於小夜を傍から離そうとせぬ。お市も不安に押し潰されそうで、信頼できる侍女の於小夜がいてくれると安心するのである。

「於小夜、わたくしは罪深いおなごじゃ。夫に従えば兄上さまを裏切り、兄上さまのお味方をすれば夫を裏切る。この乱世が全ての災いの元凶。一日も(はよ)うわたくしのように悩み苦しみ、悲しむおなごがいなくなる世が来て欲しいものじゃ」
「お方さま」

 お市の心がよく判るだけに、於小夜は何も言えない。甲斐国のお屋形さまこと信玄公が早く上洛して、天下を平定して欲しいと於小夜は願うが、そうなると今度は浅井家が滅んでしまう。

(別に浅井家が滅ぶのは構わないが、夫婦の睦まじさから考えると、お方さまは間違いなく長政と共に死を選ぶだろう。そうなったとき、私は耐えられるだろうか。その後、何食わぬ顔で甲斐国へ戻れるだろうか?)

 於小夜は人知れず懊悩する。

 この時期、思い悩むお市たち主従の心を慰めてくれたのは、万福丸と茶々の存在だった。この異母兄妹は無邪気に愛くるしい笑顔を振りまき、不安に陥る女達にとって一服の清涼剤となった。七歳の万福丸と一歳の茶々、そして腹に宿る胎児がお市の慰めとなった。於小夜にしても、この幼子達の世話に明け暮れることで、不安を心の奥底へ押しやることに一応、成功している。

「殿、どうかご無事で」

 浅井家の女となったからには、お市も腹を括っている。この乱世ではいつ死別してもおかしくはないが、嫡男の万福丸をはじめとする長政の子らは、まだあまりにも幼い。お市も、慕わしい長政が生きて小谷の地へ戻ってくることを、切に願っている。兄を裏切ることに心苦しさはあるが、最初に浅井との約定を破ったのは信長の方だという思いが、彼女を完全に浅井のおなごにしてしまった。

(兄上さま、義姉上さま……おさらばです)

 共に過ごした懐かしき日々を思い起こしながらお市は、長政の正室として金ヶ崎城へと出陣する夫を見送った。長政の背中が苦渋に満ち満ちていることを知る者は、お市と於小夜のみであった。
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