第8話

文字数 1,336文字

 義元は戦国武将として一目置かれる存在だが、その嫡男である氏真では今川家を統率などできない。彼は戦よりも京風の暮らしを好み、風雅を愛する男だった。父親の義元も風雅を愛したが、彼は気骨のある男だった。信玄は甥の性格を良く把握した上で、そう呟いたのだ。

 義元を失った今川家など、信玄にとっては同盟を結ぶに値しない。だが、実父を強引に押しつけた引け目もあり、今すぐに今川家との同盟を破棄しようという気にはなれない。それよりも気になるのが、今まで歯牙にもかけなかった、尾張の大うつけだった。世に聞こえたうつけぶりは、偽りのものであると行動によって示したのだ。

(これは思わぬ伏兵が登場したものよ。だが、まだ脅威を感じるほどではない。いずれ上洛するときに、尾張は平定せねばならんのだ。いつか相まみえるならば、少し探りを入れておくか)

 長考しながら、信玄は髭が伸びた顎を撫でた。

「於小夜。そなたは尾張国へ発ち、清洲城下で刀鍛冶を営んでいる清四郎の(もと)へ行け。そこを拠点に何とか織田家に潜り込み、信長の動向を探れ。小十郎は越後の上杉を探れ。よいな二人とも」
「はい」

 二人は頭を垂れて返事をすると、抜け穴を辿って忍び小屋まで戻る。中にいた頭領の三太夫にこの事を告げると、彼は下忍たちをそれぞれ清洲城下と春日山城下へと走らせた。これで二人がそれぞれの地へ赴いたとき、迅速に事が運ぶようになる。上杉とは幾度も信濃の支配権を巡って争っており、相手の忍びもこちらを探っているようだ。女忍びは侍女という形で城の中に潜り込める。

(さほど脅威を感じていない信長など、まだまだ一人前とは言い難い於小夜で充分だと、お屋形さまは判断されたようだな)

 それは三太夫も同意見だったので、於小夜には、こちらから指図あるまで正体が露見せぬよう且つ、無理をせぬ程度に探れと言いつけた。於小夜は、自分がまだまだ半人前だということを自覚している。故に侍女として潜り込んだ後に、油断をしてはならぬと言い聞かせる。

「では頭領さま、すぐに」
「待て、そう慌てずとも良かろう。せめて今宵は、ゆるりと身体を休めよ。小十郎もだ」

 旅支度を始めた小十郎の背中にもそう告げると、三太夫はお屋形さまの許へ行ってくると言い残し、床下の抜け穴へと身を滑り込ませた。

「頭領さまもああおっしゃったことだし、今宵は久しぶりに、気兼ねなく眠ろう」

 小屋の片隅に茣蓙を敷き、さっそく横になった小十郎は、たちまち深い眠りについてしまった。仲間が居るこの甲斐国の忍び宿は、三ツ者たちが警戒せずに安心して眠れる数少ない場所だ。於小夜も旅支度を手早く終えると、小十郎の隣で横になる。

(織田家に潜り込む。上手い具合に信長付きか、はたまた正室付きの侍女になれると良いのだけれど)

 そんなことを考えながら、於小夜はいつしか深い眠りに落ちていった。目を覚ましたときにはもう、小十郎の姿は消えていた。夜明けにはまだ間がある寅の刻頃と思われるが、不寝番をしていた仲間に聞いたところ、小十郎は丑の刻には小屋を出たそうだ。

 忍び道具を背負い籠に仕舞い込み、行商人の姿になった彼女は、短刀を胸元に納め、忍び小屋を出た。仲間たちに見送られ、躑躅ヶ崎居館の濠を越え、一路、尾張へと走り出す。
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