第41話

文字数 1,415文字

 甲斐の猛虎、()つ――。

 この報せは甲賀忍びの山中家・伴家が信長に報せてきた。両家合わせて十数名が甲斐国に潜入したが、戻ってきた者はわずか一人であった。しかもその者は片目を潰され、全身は血まみれの傷だらけで報告を終えると絶命してしまった。信玄が本気であることを報せるために、わざと一人だけ逃がしたのではないかと思わせるほど、織田側の忍びは消されたのだ。

 信長は当時、浅井朝倉、そして石山本願寺が率いる一向宗と戦っているために、背後からひたひたと忍び寄る武田まで、相手に出来なかった。

「そこもとにはいつも儂の背中を守らせてばかりだが、此度もどうか、武田を食い止めてはくれまいか。こなたからも援軍を差し向けるゆえ、なにとぞ、よしなに」

 信長はこういうときだけ家康に対して、おもねるような態度を取る。家康も家臣たちも、厄介ごとを押しつける信長に辟易しているが、同盟を破棄して信長と戦うにはまだ力不足だと痛感もしている。肚の内に渦巻く不平不満を何とか押し込め、己が奪い返し安堵させた三河の地を、余所者に蹂躙されることだけは断じて許せなかった。

 己の軍勢では信長に勝てない。更に強大な武田にどうして勝てようか。それでもやらねば、三河が取られる。信長に良いように利用されていると判っていても、三河のために大勝負をせねばならぬ時は今だと、家康は自覚した。

「遠江にて武田を迎え撃つ。者ども、戦の支度にかかれ」

 こうなってはやるしかあるまい。遠江の一言坂にて元亀三年の十月十四日に武田軍と戦ったが、敗北。同月十九日に、遠江の要衝である二俣城で一戦を交えたが、これも敗退。二俣城を武田に取られてしまった。

 孤軍奮闘する家康は幾度も信長に援軍を請うたが、信長も石山本願寺や一旦は義昭の取りなしを受け入れて和睦した浅井・朝倉連合軍と争っていたために、援軍が思うように送れなかった。それでも織田軍は、佐久間信盛、平手汎秀らと三千の兵を送ってきたが、たった三千程度では何の足しにもならぬ。

「殿、織田どのの援軍など当てには出来ぬ以上、浜松に戻り籠城して迎え撃ちましょうぞ」

 腹心である本多正信らの意見を取り入れ浜松城に入城したが、三ツ者たちからの情報を得た信玄は
「儂は野戦の方が得意でな」
 と不敵に笑い、わざと浜松城を素通りし家康を挑発した。

 籠城戦を覚悟していた徳川軍は見事に肩すかしを食らった。対する武田軍は、口惜しかったら出てみろと言わんばかりに悠々と西上を止めない。三方ヶ原を通過しようとしていることを、伊賀忍び頭領の一人である服部半蔵から知らされた家康は、屈辱に身を焦がした。

 当時三十代のまだ武将として血気盛んな年齢であった家康は、危険を顧みず城から討って出ると主張した。

「なりませぬぞ。それこそ信玄めの思う壷。あの生臭い入道めは野戦が得意な武将。ここは敢えて動かず籠城し、挑発に乗らぬと察した敵が引き返すのを待つのが得策かと」
「黙れ。そして儂は織田どのに、みすみす敵を素通りさせた腰抜け者と罵られよと申すのか? そのような屈辱、甘んじて受け入れるわけにはいかぬ」

 後年の家康ならば、じっと浜松城に立て籠もり小勢を以て逆に挑発し、籠城戦に持ち込んだであろう。だがこの時の彼はまだ若い。一言坂と墨俣と続けて敗れ、弱小大名めと鼻であしらわれたことに、武将としての矜持が傷つけられた思いだ。燃えたぎる熱情は抑えられず、諸将の反対を押し切って浜松城を出た。
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