第75話

文字数 991文字

 武田家が滅びようとも、信玄が築き上げた間諜網は、真田昌幸によって引き継がれた。

 勝頼親子の死が昌幸の許に届けられたとき、彼は叔父である矢沢頼綱を前に勝頼に信じてもらえなかった我が身の不幸を呪った。同時に、岩田山城へ逃げ小山田信茂に匿ってもらうよう進言した長坂光堅を口汚く罵倒し、裏切った小山田信茂に不幸あれと叫ぶ。

 そんな真田家当主をたしなめた頼綱が下がってしばらくの後、床下から庄助の声が届いた。これから真田家は、どのように生き残るのかと問いかけてきたのだ。それ如何によっては、真田忍びの働きかたも変わる。しばし熟考した後、昌幸は独り言の態で告げた。

「こうなっては仕方あるまい。織田家に従うしかないだろう」
「では、織田家に潜入させている者たちは、そのままでよろしゅうございますな?」

 小十郎夫妻のことである。肯定の返事をすると、庄助の気配が消えた。

 昌幸が居る場所は先代の幸隆が亡き信玄に倣って造った、八畳の広さを誇る小座敷である。表向きは厠となっているが、実際は小部屋だ。

 暗殺防止の鉄板が貼られてある床板を剥がすと、ひと坪ほどの穴蔵が広がっている。その穴蔵から四方八方へ小径が延び、真田忍びの溜まり場である忍び小屋や本丸曲輪の中庭、北東にある出丸の天狗丸、さらには岩櫃山の裾野と、様々な出口へと続いている。

 小径はしっかりと木組みで補強され、人が軽く屈みながら移動できる。いざとなれば、この隠し小径を使って外へ脱出できる。真田忍びが昼夜を問わず掘り広げ、完成させたものだ。今もなお、隠し小径の出口は人知れず増え続けている。

 昌幸が攻略した沼田城にも同様の仕掛けがあるが、そのことを知るのは真田の人間のみである。沼田城は後年、北条氏と所有権争いが起こるが、ついにこの隠し小径の存在が明らかにならなかった。北条の飼っていた忍び、風魔衆と真田忍びの壮絶な死闘が繰り広げられたが、秘密は守り通せた。

 武田氏滅亡後、真田家は織田家の傘下に入った。昌幸が処断されずに傘下に加わることが認められたのも、勝頼存命の内からすでに徳川とよしみをつけていた。それは武田忍びのひとり、望月(もちづき)千代女(ちよめ)の存在が大きかった。

 彼女は元々は甲賀の出で、同じく甲賀出身の織田方の滝川一益と彼女を通じ、勝頼に内密で小大名である真田家が生き残る策を講じていた。腹黒い策士と謳われる昌幸の、目敏い一面が功を奏した形だ。
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