第50話

文字数 1,653文字

 三日後。

 致命傷にはならずとも、それなりに手傷を負った小十郎が甲府に現れた。目論見通り左側に傷を負い、庄助の前に進み出た彼は読唇術で決意を述べた。

「頭領さま。於小夜どのを、我が嫁に貰い受けたい」
「……あれには、告げたのか?」

 首を横に振ることで、まだだと返事をする。じっと小十郎を見つめていた庄助だが、やがて小さく息を吐くとよかろうと呟くように告げた。

「思えばそなたは、昔からあれを好いていたように見受けられたが?」

 さすがは三ツ者の頭領である。胸に秘めた想いを看破していたようだ。

「よい、許す。あれがお市の傍に留まりたいと申しても、構わぬ。ただし」

 そこで庄助は冷たい目になり、ぎろりと小十郎を睨みつけた。

「二人共に死ぬことだけは許さぬ。それにもし子が出来たならば、男女関係なく忍びにするために儂が許へ寄越せ。それが条件だ」

 小十郎と於小夜の子ならば、忍びとしての資質は素晴らしいものが備わっているはずだ。於小夜が小十郎の申し出を断ることはないと、男二人はふんでいる。

「小十郎。そなたは儂が配下であると同時に、武藤喜兵衛どのの忍びでもある。今のところ三ツ者は、三派に分裂しつつある」
「と、おっしゃいますと?」
「ひとつは儂と共に喜兵衛どのの配下に入る一派。まぁこれは数が少ないが。ひとつは、このまま武田家の三ツ者として働く者。これが大半だ。最後に、武田家に見切りをつけて早々と徳川家に駆け込む者たち」
「徳川ですと? あのような弱小大名の許に行ったとて、何になりましょうか」
「亡きお屋形さまが築き上げた諜報網の全てを知りたいと、密かに我が手から逃げ出した者たちを匿っているらしい。見つけ次第斬り捨てているが、あちらも伊賀者がおってな。幾人かは逃げ果せておる」
「なんと……」

 初耳の現実に、小十郎は暫し茫然とする。口が大きく開き、両手はだらりと垂れ下がり、両眼は何も映していないかのようだ。あれほど結束の固かった三ツ者も、信玄公という偉大な太陽が隠れた途端、闇に呑まれてしまったのかと身震いが出る。

「勝頼さまでは、この武田家は長く持たぬ。ならば亡きお屋形さまの御心を、よりよく継いでいると思われる喜兵衛どのに、三ツ者の精鋭を預けようと儂は決意した」

 頭領の胸の内を理解した小十郎は、深く頭を垂れるとすぐに柴田家へと戻った。

 約七日も留守にしていたが、佐助が従者として舞い戻っていたので、上手く留守を誤魔化していた。

 近江に立ち寄り夜中に於小夜の枕頭に立つと、彼女は構えていた懐刀を納めた。

「たった今、甲府から戻った。於小夜、お屋形さまが御隠れになられた」

 思わず声を上げようとする彼女の口を、己のそれで塞ぎそのまま布団に押し倒す。惑乱する彼女の耳元で、頭領が武藤喜兵衛の傘下に入ったので、これからは武藤喜兵衛が主であること。自分たちの婚姻を認めてくれたことを淡々と告げた。

 敬愛していた信玄の死。

 叔父である頭領からの命令。

 思いがけない小十郎からの求婚に、於小夜は混乱しつつも全てを受け入れた。

 以前より憎からず思っていた男からの思いがけない求婚に、女としての喜びが勝り、すとんと脳に入り込んだのだ。

 古参の侍女と相部屋であるが、人の気配を察した時点で、於小夜が眠り薬をたっぷりと嗅がせてある。朝まで目が覚めることはない。

「小十郎どのと私が、夫婦に」
「そうだ。今は織田と浅井は敵同士だが、どんな形であれお市さまはいずれ織田家に戻られるはず。そのとき、祝言を挙げよう」

 嬉しさに涙がこぼれ落ちる。ひしと小十郎の首に両腕を巻き付け、二人は東雲の頃を迎えるまで、激しく睦み合った。

(お屋形さま、おさらばにございます……)

 叶わぬ恋と諦めていた男と一つになったとき、於小夜は誰よりも敬愛していた信玄との永別を受け入れた。

 武田の猛虎は、永久(とこしえ)の眠りに就いた。

 信長を脅かす敵が一人減ったことで俄然勢いを吹き返し、織田徳川連合軍は本格的に朝倉浅井を殲滅すべく、行動に移した。

 それは、お市にとって最大の試練でもあった。
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