第56話

文字数 1,176文字

「姉さま、お山が燃えております。父さまは、もう……」
「それ以上、なにも申してはなりませぬ。よいか、お初」

 わずか五歳の茶々は、妹に向けてぴしゃりと言い放った。ふたつしか離れていないというのに、茶々は長女としてしかと眼を開き、ごうごうと炎に包まれていく小谷城を眺めていた。

 妹の手をしっかりと握りしめ、泣くまいと全身に力を入れる姿は痛々しい。本来ならば、声を上げて泣いても許される年齢だというのに、気丈に振る舞うその姿に、周囲の大人たちが涙を禁じ得ない。

(なんと気丈な姫君じゃ。父君が伯父御に討たれたことを理解し、哀しみに耐えておられる)

 お市が乗った輿に付き従いながら、於小夜は他の侍女たちと共に歩む姫たちの姿を盗み見た。輿の中からは、絶えず忍び泣きが聞こえてくる。

 小谷城攻略は、これで終わった。亮政(すけまさ)、久政、そして長政。浅井家はわずか三代でこの乱世から姿を消した。いや、まだ万福丸と万寿丸が逃げているため、四代続くかもしれない。しかし、と於小夜は気付かれぬよう小さくかぶりを振った。あの信長が万福丸の存在を是とするはずがない。草の根を分けてでも探し出すよう命じることは、充分にあり得る。

(もし万が一、万福丸さまが捕らえられたとしたら、お市さまは耐えられるだろうか)

 長政の遺言に従い、お市は姫たちの養育と万福丸が生き延び、浅井家を再興してくれることを心の支えにしている。亡き夫との約束を果たせなくなったら、後を追いかねない。それほど今のお市の心は危ういものになっている。

(お市さまはそれほどまでに、浅井の殿を)

 二人の仲は周囲も羨むほどだった。こんな乱世でなければまた違った人生が待っていただろうにと、於小夜は忍びらしからぬ感傷に浸ってしまった。今の於小夜は忍びとしての立場を忘れ、すっかりお市付きの侍女になりきっている。府抜けたと傍からは見えるかもしれないが、女主人を憐れむ気持ちは本物だ。

 お市たち一行は勝利に沸き立つ織田本陣をすり抜け、お市の兄であり信長の同母弟である、織田信包(のぶかね)が守護する安濃津城へと移送されている。さすがに長政を討った張本人である信長も、自分の手元に置くことは居心地が悪かったらしい。

 お市たち一行が無事に安濃津城に入った報せが、岐阜城に戻った信長にもたらされると、心底安堵の息を洩らした。

(おそらく市は、終生儂を許さぬであろう。だがこれも全て乱世の習い。再嫁は当分考えられぬだろうから、好きにさせてやろう)

 何といっても信長にとってお市は、いくつになっても目の中に入れても痛くないほど愛しい妹なのだ。それほど溺愛している妹の夫として選んだ長政の才能を高く評価していただけに、今回の戦は信長自身の心にも深い影を落としていた。

「お市が自害せぬよう、心配りを抜かるな」

 信包に早馬で報せると、信長は隣に座す正室に向けて語りかける。
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