第42話

文字数 1,271文字

「かかった。ふん、所詮は小童よ」

 家康が動いたことを三ツ者から聞いた信玄は、高笑いと共に三方ヶ原にて布陣を命じた。ここを家康の墓場にしてくれようと、信玄の顔には不敵な笑みが浮かんでいる。今まで、上杉や北条といった百戦錬磨の強者達と戦ってきた信玄にとって、家康など赤子の手を捻るが如く簡単に潰せる相手である。現に三方ヶ原での対決は、家康の惨敗。

 総大将である家康自らが、殿を買って出ねばならぬほど、味方は千々に蹴散らされ蹂躙された。僅かな供回りと共に逃げに逃げ、とにかく部下たちを一人でも多く浜松城へ帰還させることしか頭にない。伊賀忍びたちの陽動もあって、何とか家康は浜松城に逃げ込むと、固くその城門を閉じた。

「見よ、三河武士の逃げっぷりを。しかし、ひとつだけ天晴れなことがある」

 護衛の旗本衆や先の一言坂における戦で戦死した頭領に代わり、新たに三ツ者の頭領となった新井庄助(しょうすけ)は、信玄の言いたいことが判らず、困惑した目を向ける。

 信玄は戦場に累々と転がる徳川兵の屍を指しつつ言い放った。

「奴等は誰一人として、我らに背を向けて倒れておらぬ。皆ひとしく儂等に向かって倒れておる。見上げた心意気ではないか、敵ながら天晴れなことよ。もののふとは、かくあるべきじゃな」

 莞爾として笑っている信玄だが、その顔色はよく見ると青黒い。だが声に張りがあるため、旗本衆は気付いていない。絶えず、陰日向なく警護をしている三ツ者だからこそ、僅かな変化を見逃さなかった。

「お屋形さま」

 庄助が信玄にしか聞こえぬ声量でそう呼びかけると、何も言うなと言わんばかりに睨まれてしまった。庄助は言葉を呑み込み一礼すると、宿営の陣幕を張るよう部下たちに命じた。徳川を追撃するよう命じ、設置の終わった宿営に入ると庄助に蟻の子一匹通さぬよう厳命する。

 一人になった信玄は床几に腰掛け、荒い息を吐いた。

(もう少し……今少し我が身よ、持ちこたえよ。天下は我が手に掴みかけておる。八百万の神々よ、我を護りたまえ)

 信玄はここ五、六年ほど前から身体の不調を覚えるようになった。しかし恐るべき精神力で病の兆候を抑え込み、実弟をはじめ幾人もの影武者を仕立てて今日まで生き長らえてきた。

「このような事態になるならば、五度も上杉と争わずに手を結んでおれば良かったな。さすれば今頃は、織田のうつけなどに天下を渡さなんだものを」

 命じるまで誰も入るなと厳命してあるために、信玄の周囲には三ツ者すらいない。あくまでも、見える範囲内であるが。本陣の周囲を厳重に三ツ者たちが固め、頭領の庄助は苦しげな信玄の呟きを耳にし、密かに嘆息する。

「儂はここを離れる。見張りを頼む」

 部下たちに警護を命じて庄助は、勝利の宴を開いている諸将の集まりへと足を運んだ。散々にうち破った為に、徳川は浜松城から討って出る事はできない。頼みの綱の信長も、今は石山本願寺が率いる一向宗との戦に明け暮れ、身動きが取れない。

(於小夜はいつ、こちらに戻れるであろうか)

 庄助の脳裏に、浅井家へ潜入している姪の顔が浮かぶ。もう十年ほど会っていない。
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