第30話

文字数 1,515文字

 於小夜は隣の間に息を潜めて控えていながら、お市のたおやかな外見とは裏腹に芯の強い内面を改めて見せつけられていた。同時に忍びの勘で、長政は苦悩の末に織田家と争うのだと悟る。となれば一刻も早く、浅井と織田が手切れになることを武田へ報せねばならない。九郎はいつ連絡をつけてくれるのかと、やきもきする。結局その夜に九郎は現れず、浅井家の命運をかけた評定が滞りなく行われた。

 やはり長政は最後まで織田家と事を構えることに難色を示したが、久政派の主張を退けることは出来なかった。いくら当主とはいえ、長政はこの元亀元年で二十五歳の若さである。まだまだ久政を大殿と呼んで憚らない家臣も多かったのだ。

 お市は長政の前で述べた決意を、久政をはじめとする重臣たちの前で堂々と述べた。外見に似合わぬ心の強さに、長政以外の誰もが度肝を抜かれさすがは織田の姫と感嘆に変わっていった。こうなってくると、最初は織田家憎しだった久政も態度を軟化せざるを得なくなってくる。

「ふん、嫁御寮がそう申すなら」

 久政はそう鼻を鳴らしたが、内心ではお市の心意気に感じ入っていた。昨年、長女の茶々を出産したお市は現在二人目の子を身籠もっている。先妻の腹から誕生した嫡男の万福丸は、継母のお市に懐き異母妹の茶々と仲良く遊ぶ。仮に二人目が男児であったとしても、跡取りは万福丸と定められてあるために、お市は無事に生まれてさえくれたらどちらでも構わぬという思いが強い。

「ならば話は決まった。嫁御寮どの、浅井のおなごとしてこの城を守り抜いてくれるか」
「はい」

 嫁いでより三年、久政とのわだかまりが解けた瞬間でもあった。長政は義兄信長と争わねばならぬ心苦しさを覚えつつも、浅井家が一致団結したことの喜びの方が勝った。

 戦うとなれば、早速に朝倉家と将軍義昭に密書を送らねばならない。だが浅井家では忍びを飼い慣らしてはいなかった。地理的に伊賀や甲賀が近く雇いやすいのだが、伊賀・甲賀共に敵対する六角家に味方をしている。久政は朝倉家の、義経流を継承する忍びを借りて諜報活動を行っていた。

 久政はすぐさま忍びに密書を渡し、朝倉家と義昭に向けて届けるよう命じた。こうして反信長包囲網の戦端を開くこととなる、朝倉家と織田家の争いは始まろうとしていた。

 信長は早い内から忍びがもたらす情報の重要さに目を付けている。彼は旧い兵法を嘲笑い、画期的な戦法を独自に編み出し実践する天才でもあった。だがその斬新な戦術を効果的に活かすには、鮮度のある情報が必要不可欠。

 信長の配下にある滝川一益は、甲賀出身の父を持つと言われる。信長は一益を通して甲賀五十三家の中でも、特に力がある二十一家の筆頭・山中家とよしみを結んだ。更に山中家が信頼する、(とも)家の協力を得ることにも成功した。

 信長は甲賀の二家を通じて、諸方に間諜網を張り巡らせていた。伊賀は個人働きが多く、甲賀は組織働きが多いという。昔は甲賀の五十三家は団結して六角氏のために働いたが、こうも世が乱れると各家は金払いが良く天下を統一できる有力武将の許へと、ばらばらに働くようになった。山中家と伴家は早くから信長に目を付け、協力を惜しまない。そんな間諜網の中、義昭の不穏な動きが悟られぬ訳がない。

 京の二条城に於いて義昭が勝手な行動を取り始めたことを信長が知ったとき、当然彼は激怒した。しかし名ばかりの将軍の命令に、従う者などいないと高を括っていた。今の信長は、朝廷や公家からも頼られる存在だったのだから。彼なくして京の平穏はない。信長自身も、そう自負している。だが足利幕府の威光というものは存外に根強く、武将だけでなく僧侶達にも影響力が強かったことが誤算だった。
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