第62話

文字数 1,006文字

「於小夜さま、一大事でございます」
「何事か佐助」

 凡人の耳には届かない極小の声で、二人は殆ど唇を動かさずに会話をする。にわかに於小夜は緊張を高め、さりげなく懐に忍ばせた手裏剣を着物の上から確認した。

「真田家に仕えるようになった頭領さまを、裏切り者として排除しようという動きがあります。於小夜さまと小十郎どのも、命を狙われています。このまま信濃に戻るのは、危険です」
「叔父さまは、いえ頭領さまはご無事か?」

真田庄(さなだのしょう)に居を構え、これぞという三ツ者たちとともにご無事でいらっしゃいます。しかし、武田家に残った急先鋒が命を狙っています」

 先代の頭領が戦場で命を落とした後、信玄直々に後釜に指名されたのが新井庄助。於小夜の叔父でもある彼は、若い頃から三ツ者の中でも腕利きと評される男である。老いてきたとはいえ、そう易々と命を取られまいと於小夜は思っている。

「頭領さまからの伝言で、このまま越前国の小十郎どのの許に行き、そこで子を産むようにと。拙者が及ばずながら、護衛役を拝命しました」

 小十郎が飛ばした伝書鳩は、どうやら無事に庄助の許に届いたようである。於小夜が越前国にしばし落ち着くことは小十郎も承知で、佐助と共に三ツ者の襲撃から護ってくれるそうだ。そういった事柄を、越前国へ向かう道すがら聞く。

 越美(えつみ)山地を貫く街道を於小夜の体調を気遣いながら、できるだけ一般の旅人を装いつつ急いだ。もう少しで越前国の大野郡、というところで、二人は夜襲を受けた。

 いつも通り佐助が見張り番に立ち、於小夜は目立つようになった腹を庇いつつ横になった。若葉が鼻腔をくすぐる初夏の夜は、星々が煌めいている。今宵は新月で、余計に星明かりが美しかった。

 忍びの動物的な直感が、なにかを捕らえた。二人は同時に忍び刀を手にし、そっと抜いた。

 暗闇の中でも忍びの目は見える。目で合図を送り、手で意思表示をする。

 殺気を孕んだ闇が、二人を押し包もうとしている。否が応でも緊張が高まる。無意識に於小夜は左手を腹に添え、母として子を庇う姿勢を取った。手裏剣を投げられないが、母としての本能が勝った。

 空気を裂く音がした。同時に於小夜は左に飛び抜け、着地と同時に再び飛んで来た手裏剣を刀でたたき落とす。

 於小夜は焦りを覚えていた。腹のややこを庇いながら争うことの、なんと不便なことかと。忍びとしての闘争本能よりも母としての防衛本能が上回り、動きが鈍くなる一方だ。
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