第72話

文字数 1,334文字

 勝頼の母、諏訪御寮人は諏訪頼重の娘。大層美しく、信玄がぜひにと側室へ迎え入れた。母の美貌と父の勇猛さを受け継いでおり、ひとかどの武将には違いない。だが信玄と太郎義信を喪い敗戦の途に就いている今、沸き上がる憤懣を総大将の勝頼にぶつけたくなる。家臣としては、あるまじき事だ。

 昌幸は失言に気付いたが、慌てずに膝を進めて、熱く岩櫃城へ落ち延びるよう説得を重ねる。いかに岩櫃城が堅牢であるかを訥々と語るうちに、勝頼も先ほどの怒りを和らげ、心を動かされた。

「そうまで言うならば安房守、岩櫃城に全軍を受け入れよ」
「ははっ。では準備を整えますので、拙者は一足先に岩櫃へ駆けさせていただきます。御免!」

 一礼し速やかに場を辞した昌幸の後ろ姿は、血気に逸っている。己の働きひとつで織田・徳川連合軍を翻弄してやると息巻き、地形を活かしどう戦ってくれようかと考えながら自軍をまとめ、岩櫃城へ移動する号令をかけた。

 去っていく真田軍を視界の端に捉えながら、勝頼は疲労を含んだ息を吐いた。その顔には、疲労の色が濃い。

(疲れた)

 決してそのような弱音は吐けないが、全身が疲労で重い。身に付けている鎧具足が、普段の何倍もの重力を伴いのしかかっていた。彼の双肩には、武田家の運命がのしかかっている。この敗走劇には勝頼の継室である北条どのと、嫡男の信勝も加わっていた。長距離の敗走にもかかわらず、北条どのは泣き言を洩らさず夫に付き従っている。

「殿。岩櫃へは、わたくしも共に参ります」
「室が共に来てくれなければ困る。このような野歩きをさせて、不便をかける。もうしばらくの辛抱だ、安房守が我らを受け入れる準備をしている」

 北条どのは、土埃にまみれた顔をほころばせ頷いた。

 四年前、彼女の兄弟である上杉景虎が家督を巡って景勝と争った御舘の乱が起こった時には、夫に弟の支援を頼んだ。最初は義弟の味方をしたが、やがて景勝との和睦に応じ、やがて乱そのものから手を引いてしまった。

 北条どのに対し、大きな負い目がある。それだけに、なんとしても生き延びて武田家を守らねばという思いが大きい。例え家臣の城へ逃げようとだ。

 陽が暮れてきたので、北条どのは侍女たちと共に陣屋へと下がった。勝頼は厳重な警戒を命じると、自分も陣屋に行きかけて声をかけられた。声の主は、長坂光堅であった。

「なにか、筑後守」

 亡父信玄の乳兄弟ともいわれ、また自身の側近中の側近でもある光堅の声に、なにやら緊迫したものを感じた。

 光堅は膝を折ると
「このまま安房守の言うとおりにするつもりか」
 と問うてきた。

「だとしたら、どうだと申すのか」
「おそれながら殿。安房守は先々代から数えて、わずか三代しか武田家に仕えておりませぬ。甘言を用いて殿を岩櫃城まで誘い込み、そこで織田・徳川に売り渡すやもしれませぬぞ」
「安房守が、裏切ると申すのか?」
「ここに逃げ落ちるまでに、幾人が殿を裏切りましたかな?」

 光堅も声に力がない。七十に近い老臣は目を閉じると、怒りを込めて今まで離反した者たちの名をあげた。

 木曽義昌、小笠原信嶺(のぶみね)穴山信君(のぶた)(梅雪)。

 敗色が色濃くなると、夜ごとに足軽たちは夜陰に乗じて逃げていった。勝頼に付き従ってくれる兵も、かなり数を減らしていた。
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