第6話

文字数 1,122文字

 桶狭間に雨を降らせた雨雲が甲斐国へ届くよりも早く、武田家に飼われている二人は、躑躅ヶ崎居館へと帰り着いた。

 武田家の居城であるこの居館は平屋造りだが、周囲には三重に濠をめぐらせ、家臣たちの屋敷も城下にある。攻め込まれ、籠城になった時点で戦は負けだという信念が、信玄にはあった。甲斐国の民衆は、みな信玄の政治に感謝している。先代の信虎公は戦では猛将だが、内政では重税をかけたりと、民衆を苦しめた。

 人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なりが信念の晴信(当時)は、重臣たちと領民の陳情を受け入れ父親を今川家に追いやった。それからずっと、信虎は今川家に客分として留まっている。そんな父親を持っていたからこそ、信玄は領地に住む民衆を心から愛し、内政に心を砕いた。

 百姓姿で於小夜たちは、躑躅ヶ崎居館の周囲を伺っていたが、周囲に人目がないことを充分に確認する。全裸になり、着物を頭の上に乗せ、堀に入ると静かに泳ぐ。これを内堀でも繰り返し、最後の空濠を前にして服を着ると、ためらいなく飛び込んだ。そのまま二人はじっと息をひそめる。自分たちを尾行してきた者がいないと判ると飛び上がり、居城の敷地内に入った。

 居館に寄り添うように建てられている、小さくて粗末な小屋へと急ぐ。小十郎が最初に一回、次に三回、ふた呼吸ほど後に、強く一回戸を叩くと、中から開けてくれた。回数と強さで、誰が叩いているか判る、一種の暗号である。

「おお、小十郎に於小夜、帰ったか」
「ただいま戻りましてございます、頭領さま」
「うむ、着物が濡れておるではないか。清洲は雨だったか?」
「桶狭間で、雨に降られまして」

 二人に話しかけているのは、三ツ者の頭領である上坂三太夫。歳は五十を超えたばかりの、小柄だが逞しい身体つきの男だ。三太夫の他にも、下働きの格好をした男女が数人ほど居り、この小屋が三ツ者の本拠地だと判る。彼らは普段、居城の雑用をする下男下女として働いている。いざ忍び働きで居館から消えても、下男下女なので誰も気に留めない。

「お前たちが戻ったことは、既にお屋形さまに伝えてある。もう暫くしたらお呼びがかかるだろうから、今のうちに熱い粥などで身体を温めておくがよい」

 囲炉裏には鍋がかかっており、仲間のひとりが二人のために粥を椀によそう。その間に二人は濡れた着物を着替え、太い梁に掛けて干した。

 忍びは己の肉体を武器に情報を得るので、いちいち裸身になることに躊躇いや羞恥を覚えない。ましてや仲間しか居ない甲斐国に帰ってきたという安堵感の方が大きく、他人の目などみな気にしないのだ。こざっぱりとした身形になり、小十郎は椀に粥を三杯も食べると人心地がついたらしく、大きく息を吐いた。
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