第9話

文字数 1,206文字

 夜も明けきらぬ薄闇の中を全速力で駆けたかと思えば不意に伏せ、耳を地面に押し当て尾行者がいないか念入りに確認をする。甲府を出て三刻後に、まだ血の臭いも生々しい桶狭間へ辿り着いた。

 むせ返るほどの血の臭いと夥しい遺体の数に、思わず眉をひそめ、彼女は足早にその場を立ち去った。

(戦の最中は気付かなかったが、何とむごい光景ね)

 女忍びは、武器を取っての戦いというものを殆ど経験しない。勿論、人を殺めたことはあるが、閨の中で油断した男の喉を掻き切る程度のこと。戦場特有の狂気に呑まれていた昨日は、人が次々と死んでいく様を見ても、何とも思わなかった。

(ああ、駄目だ。これだから女忍びは、頼みにならぬと言われるのか)

 気分が塞いできた於小夜は大きく息を吐くと頭を振り、気持ちを切り替える。梅雨空だが周囲は明るくなっているので、常人と同じ歩みで清洲城下を目指す。自分を見張る目がないか充分に確認しつつ進み、やがて清洲に辿り着いた。

 刀鍛冶師の清四郎の店は、清洲城下でも随一の大通りにあるとだけ、頭領から聞いている。清洲に来るのは初めてなので、どこからか仲間が現れるのを待ちながら、わざと菅笠の縁を持ち上げて顔の汗を手拭いで拭った。

「もし……もし、そこな旅のお方」

 聞き覚えのある声が彼女の左側から聞こえ、ゆっくりとそちらを見やれば、中間(ちゅうげん)に化けた下忍の権佐がいる。彼は何気ない風を装って於小夜に近付く。

「この通りの、二つ目の辻を右に曲がってすぐに、清四郎の店があります」

 素早く告げ、そのまま何処かへと去っていった。於小夜は菅笠を被り直し、言われた通りに道を進む。

 かなり大きな構えをした店があり、そこの戸がいきなり開くと清四郎その人が顔を出した。周囲を素早く見回し於小夜は、自分たちに注意を払う者が誰もいないことを確認すると、素早く入り込んだ。すぐさま戸は閉じられ、奥の鍛冶場へと移動する。店で働く者たちは全て武田の三ツ者で、於小夜の顔を見て軽く頭を下げるも、鉄を打つ手は休めない。

「話は伺っております。信長や正室付きの侍女は身元の詮議が厳しく、我々もなかなか難儀しておりました。しかし五年前に使い番を務める久津見(くつみ)とやらの妻に、仲間を据えることに成功しました」

 そこまで言うと清四郎は、ですがと肩を落とした。

「信長も正室も、それにお部屋さま(側室)たちも侍女は間に合っており、唯一潜り込めるとすれば、妹のお市です」
「信長の妹」
「はい。お市は十三歳ですが、信長が目に入れても痛くないほどの可愛がりようで、未だに嫁に行く気配はございませぬ。兄夫婦との仲も良く、正室のお濃の方に次いで、信長に近いおなごではないかと」
「ほほう」

 戦国期の十三歳といえば、そろそろ政略結婚の対象として嫁がされてもおかしくない年頃。しかし兄は妹を溺愛し、手放そうとせずに、目の届くところに住まわせているという。於小夜の口の端が、意味ありげに持ち上がった。
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