第45話

文字数 1,171文字

「どんなおなごを抱いても、必ず於須恵どのが浮かぶ。顔はもうはっきりと思い出せぬが、教え込まれた手練手管が思い出させる」

 喜兵衛は竹筒に残った酒を一気に飲み干すと、疲れのせいで酔いが一気に全身をまわり、その場に倒れ込んでしまった。すぐに高いびきが聞こえてきて、庄助は苦笑すると信玄のいる本陣へと戻る。

 そのわずかな道すがら
(於小夜には、好いてくれる男ができただろうか。出来るならば、好いてくれる男と夫婦になって、忍びから足を洗って欲しい)
 と願ってしまう。

 姪であり於小夜の姉の於須恵は、信玄から嫁に行く気はないかと問われても一笑に付してしまった。もし十二年前のあのとき信玄の言葉に従っていたらと思うが、もはや遅い。

「せめて於小夜、そなただけは――」

 小さく、小さく呟かれた言葉は、誰の耳に届くことなく消えていった。

 庄助が信玄の傍を離れていたのは四半刻ほどであったが、その間に信玄の身体は、病魔によって蝕まれていた。だが信玄は気力で体調の悪さを抑え込むと、戻ってきた庄助を傍に置き眠りに就いた。

 三方ヶ原の合戦後、武田と織田は正式に断交した。

 婚約をしていた信長の嫡男・信忠と、信玄の六女・松姫との縁談は当然破談となり、松姫は未婚のまま新舘の御寮人と呼ばれ生涯独身を通した。信玄は三方ヶ原合戦後、しばし陣を遠江に留めていた。三方ヶ原での損失などないに等しく、兵力は充分であったにもかかわらず、なかなか西へ進軍しようとしなかった。

「お屋形さま」

 ある日、陣幕の奥深くで信玄が喀血した。その顔色は鉛色で吐き出された血も黒っぽく、庄助は一目で事態が思わしくない方向へ進んでいることを悟った。庄助はすぐ傍にいた一人の三ツ者を、いきなり斬り捨てる。夥しい血が信玄の喀血を隠し庄助はわざと大声をあげた。

「この、痴れ者めが!」

 何事かと、人払いで遠ざけられていた小姓たちが陣幕の中に飛び込んでくる。だが顔色一つ変えず床几に座している信玄と、憤怒の表情で血刀を下げ屍を見下ろしている庄助の姿が目に飛び込んできた。

「騒がせて申し訳ござらぬ。我が手の者がお屋形さまに対し粗相を働いたゆえに、手討ちにいたした。大事ないでござる」

 堂々と嘘を並べ立てる庄助。信玄もこれを否定することなく頷いたために、小姓たちはまた陣幕の外へ出て行った。

「新井、この者を丁重に葬れ」
「ははっ。咄嗟のこととはいえ、可哀想なことをしました」
「良い。そなたが儂の喀血を隠すため、口封じの為にしたことを咎めようとは思わぬ。よく仕手のけた、礼を言うぞ」
「勿体なきお言葉にございます」

 庄助はまだ若い三ツ者に向け、小さくすまぬと詫びると、遺体を何処かへと運び出す。

 一人になった信玄は、痛む己の腹部をさすりながら
「今少し……あと少し持ちこたえよ」
 と呟いている。己に必死に言い聞かせるようである。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み