第83話

文字数 904文字

 表面上は、二組の夫婦は波風もたてず仲良く暮らしている。しかし、小十郎が閨の中で於小夜に洩らしたひと言が、彼女の心をざわつかせた。

「於小夜、どうも内乱が起きそうな気配だ」
「どういうことでございますか」

 小十郎の妻となり、すっかり忍びは廃業してしまった於小夜にとって、織田家家中の騒乱の種はどこか遠い国の話に聞こえた。約二十年も、ただの侍女になりきって暮らしてきた於小夜は、すっかり忍びとしての感覚が鈍っている。

 そんな妻に苦笑しつつも、小十郎は少々肉(しし)置きが増えた女体を抱きつつ、読唇術で語り始めた。

「来月、亡き大殿(信長)の葬儀を羽柴どのが、取り仕切ることになった。しかしそれに不満を抱いた信孝さまが、三法師さまを旗印に岐阜城に立て籠もっている。ここまでは判るな?」
「はい、羽柴さまが天下の耳目を己に集める為の大芝居と、私たち侍女の間でも噂になっています」

 秋も深まり始めた九月下旬。虫の声音が、夫婦が暮らす小さな庵に響く。小十郎は語りながらも、油断なく外に人の気配がないか探る。於小夜も鈍っているとはいえ元忍び。夫に倣い外の気配を探る。

「信孝さまは、幼い三法師さまを担ぎ上げ、これを傀儡とせんとする羽柴さまを憎んでいる。ゆえに、極秘に柴田さまらと手を結び、反羽柴派が挙兵するという動きがあるのだ」

 柴田家の一員であるとはいえ、小十郎の身分は相変わらず足軽頭のままである。その低い地位に留まり続けながら、こうして情報を拾い上げてくるあたりはさすがに小十郎である。ひと晩の内に越前から岐阜城まで走り、秘密の(はかりごと)を聞き取り、翌朝までには何食わぬ顔で戻ってくるのだから。

 於小夜も夜中に夫が抜け出していることに気付いていたが、まさかそんな内乱が起ころうとは思っていなかった。

「柴田さまが絡んでいらっしゃるとなると、またお市さまが巻き込まれるのか」

 於小夜の顔が曇る。

 信長という巨星が堕ちた織田家の今後を、必ずしも血族の者が嗣ぐとは限らない。今は乱世、弱肉強食の時代。力のある者がのし上がり、覇権を握る。幼い三法師を形の上では織田家当主にしても、周囲の大人たちは我こそがと息巻く。場合によっては、主家を裏切ってでも。
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