第57話

文字数 1,396文字

「帰蝶。儂は、市に心底憎まれたやもしれぬ。じゃが、それほどまでに長政に惚れた市の心情も、儂にはよく判る。儂が見込んだ男だったからな、長政は」

 帰蝶は無言を貫いている。ここで何か意見を差し挟めば、たちどころに
「おなごに何が判るというのじゃ!」
 と激昂するのが、信長の性格だ。

 聡い彼女には、それが判っている。大事な妹の夫、己の義弟に相応しいと見込んだ男を、自らの手で葬り去らねばならなかった苦悩。彼女は何も言わなかったが、夫の苦痛を誰よりも理解していた。

「六角氏と伊勢を平定したら、今度こそ京まで儂を阻む者はおらぬ。帰蝶、今少しだ。今少しで儂は天下をこの手に掴み取り、乱世を終わらせる」

(そうすればお市どののように、悲劇に巻き込まれるおなごも少なくなりますね)

 言葉には出さぬが、帰蝶は目で語った。信長もそれを察し、夫婦は無言で城下町を眺めていた。

「殿の命令だ、万福丸を何としてでも探し出せ。匿う者は容赦せぬと脅せ!」

 信長の命を受けた秀吉が、たった一人の男児探索のために幾多の兵士に号令をかけた。秀吉本人としては、まだ十一歳の男児を手にかけたくはない。しかし命令とあらば遂行せねば今度は己の身が危うい。何と言っても己は、織田家家臣団の中で地位が低いのだから。

 敵の男児など、生かしておいては後々の憂いにしかならない。年齢など関係ない。生きていることが災いなのだ。ましてや万福丸はいつ元服し祖父と父の仇を討つべく残党を纏め上げるや、しれたものではない。あの信長でさえ一目置いたほどの長政の血を引く男児で、唯一の跡取り。浅井家の残党が担ぎ上げ、攻めてこぬとも限らない。

 次男の万寿丸の存在は、このとき信長の耳には入っていない。仮に入ったとしても、既に僧籍にある身。出家し俗世と縁を切った幼子を殺すことは、それこそ世間の評判が悪い。

 人海戦術を用いて、民家をしらみつぶしに探す。

 万福丸は、現在の長浜市にある余呉湖のほとりに住む者に匿われていたが、遂に見つけられてしまった。関ヶ原の刑場に引っ立てられていく浅井家の跡取りは、覚悟を決め刑に臨んだ。

 磔刑とも串刺しの刑に処されたともあるが、いずれにせよ万福丸は、元服を迎えぬまま木下秀吉の手で捕らえられ、短い生涯を終えた。出家した万寿丸を除き、これで長政の血を引く男児はいなくなり、浅井家は滅亡した。

 この報せが信長に届いたとき、彼にしては珍しく一瞬だけ狼狽した。甥が死んだことに対してではない。この事実を最愛の妹に告げるか否か、判断に迷っただけだ。短く「さようか」とだけ言うと、浅井家の事は終わったとばかりに関心を示さなくなる。

 しかし人の口に戸は立てられぬもの。特にいつの時代もおなごはお喋りが好きで、侍女たちの口の端に乗って安濃津城に届いた。当然お市付きの侍女たちの耳に入り、悲しみに暮れる女主人の耳に入れるか散々迷った。入れるとしても、誰が告げるか揉めに揉めたが、意外な形で決着が付いた。

「市、話があるがよいか」

 安濃津城城主であり兄の信包が、市の私室を訪ねてきた。事情通の侍女たちは、一斉に青ざめた。

「何でしょう、兄上」

 いまだに悲しみに囚われ、ぼんやりした表情のまま返事をする。一瞬の躊躇いののち、信包は事実を短く述べる。最愛の夫を亡くしたお市に、継子の死はどこか他人ごとに感じられた。信長の性格を熟知している故に、覚悟はできていたのだ。
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