第55話

文字数 1,035文字

「殿、市は……この市は!」

 そこでお市は長政の膝に縋り付くと、激しく身を揉んで泣き崩れた。

 僧侶として生きる万寿丸が成人し、浅井家を再興しようという勢力があったとする。その時に異母とはいえ、浅井家のおなごとして長政の生き様を申し伝えねばならない。姫たちにも同様だ。母として、次代の浅井家当主の後ろ盾としての感情と、長政の妻としての感情がお市の中で激しく戦う。

 頭では判っているのだ。長政の言うとおり、今すぐ落ち延びるべきだと。だがここで別れたら、二度と会うことは叶わない。それが未練となり葛藤となる。

「頼む、お方。自害に臨むにあたり妻子を道連れにした恥知らずと、後世に言われとうない。お方はこの長政を、天下の笑い物にしたいのか?」

 身を切るような選択だと双方共に判っている。この乱世では、このような別れなど掃いて捨てるほど繰り返されてきた。長政夫妻も今、それに直面している。

 お市がひと声上げて泣くたびに、心が切り裂かれていく。身をよじるたびに、五臓六腑から血が流れるようだった。お市は傷だらけになりながらも時間がないことを悟り、ようやくひとつの決意を胸に秘めた。

 面を上げたお市は、まっすぐに長政の顔を見つめる。

「子らを頼む」

 駄目押しのように長政が言えば、お市も目を真っ赤に腫らしようやく首肯した。隣室の侍女らも夫妻の葛藤に、そっと涙をこぼしている。中には夫妻の心中を慮り、拳を握りすぎて、かすかに出血している者までいる。

「於小夜、於小夜はおらぬか」
「はい殿。お側に控えてございます」
「話は聞いていたな? お方と姫たちを織田家へ戻す。木下どのにも申し伝えるゆえ、そなたたちは支度を頼む」
「ははっ」

 入室が許され、もうひとりの古参の侍女と共に、お市を抱きかかえる。全身に力が入らないお市を支えながら、さりげなく於小夜は長政を見やった。

 死地に赴く男の眼差しが、そこにあった。

 木下軍に守られるようにしてお市と三姉妹、そして於小夜をはじめとする織田家から付き従ってきた侍女たちは虎御前山にある織田本陣へと戻った。信長はその報せを聞くと総攻撃を命じる。

 長政は本丸を捨て前線で戦ったが、武力の差に覚悟を決めた。せめて最期は本丸にてと思ったが、織田軍は反対側の尾根伝いに本丸を落としたため、戻れなくなってしまった。そこで家臣の赤尾屋敷に入ると、自害の支度をする。

 天正元年、九月一日。浅井長政は僅かな供回りと共に自害した。享年二十九。お市との結婚生活は、わずか六年であった。
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