第21話

文字数 1,230文字

「於小夜さま」
「九郎か」

 於小夜がまだ甲斐国にいた頃には修行中だった九郎が、七年の時を経て立派な忍びとなり、甲斐国と尾張国の連絡役を務めている。少年の姿しか知らぬ於小夜にとって、自分はこれほど長く甲斐国を離れているのだと改めて思い知らされる。同時に、信玄の太く威厳に満ちた声が懐かしく思い出された。だが、ほんの一瞬だけ浮かんだ郷愁の念を心の奥深くに沈めると、彼女は冷静な声で尋ねる。

「織田の忍びに気取られなんだか?」
「はい。侵入口を拵えてありますゆえ」

 於小夜がこの織田家に潜入してから少しずつ、三ツ者たちが織田の忍びたちの目をかすめて、出入り口を作ったらしい。城内にいる於小夜には、何処にそれがあるのか判らぬが、巧妙に作られているのだろう。

「お屋形さまより言伝を承って参りました。そのまま浅井家へ赴き、織田と浅井の様子を探れと。連絡役は、わたしが務めますので」
「さようか」

 手早く会話を終えると、九郎は闇の中へと溶け込んでいった。於小夜は一刻ほど外の気配に耳をすませていたが、気取られた気配は、感じられなかった。どうやら、上手く脱出できたのだろう。若いながらも九郎は小十郎の師、長作(ちょうさく)にみっちりと仕込まれている。その辺は、抜かりないだろう。

 九郎が於小夜の枕頭に現れるより、三日前。

(北近江の浅井家か。信長め、尾張から京まで危なげなく進む道を、拵えおったか。まぁ所詮、これも我が武田家のための、露払いにすぎぬわい)

 報せを聞いた信玄は、内心でほくそ笑んだ。桶狭間で今川義元を撃破したと言っても、武田家から見れば取るに足りない大名。何も恐れることはなしと思っている。

 今のところ武田家に対し信長は、あくまでもへりくだった態度を取っている。切腹せしめた嫡男・義信の妻には信長の養女を迎え彼女が病没すると、今度は信長の嫡男・信忠と信玄の五女である松姫との婚約が整った。とはいえ松姫は七歳の童女である。婚約が整ったために新舘の御寮人と呼ばれ、嫁ぐ日を待っていた。

だが美濃攻略を終えた辺りから、信長は堂々と『天下布武』を使い始めた。武力によって世を治めることを宣言されたのだ。諸大名が面白くないのは、当然である。信玄とて面白くなかったが、婚約も整っているので表向き、信長は自分に敵意を見せていない。とりあえず静観しているところへ、織田家と浅井家の同盟ときた。

(浅井家は以前から越前の朝倉家と、よしみを結んでおる。当主の長政はともかく、先代の久政は朝倉家との結びつきを重視していると聞く。くくく。これは、面白き事になりそうじゃ)

 信玄にしてみれば、織田と浅井がこのまま仲良く手を取り合い、京近辺を治めるならばそれも良し。万が一にも手切れとなったとしても、潰し合って国力を落とすことは都合の良いことだ。

 信玄は領国を充分に治め、地固めをしてからでないと新たな戦に討って出ない。力を温存し、その間に織田や松平元康改め徳川家康が戦をして疲弊するならば、武田家にとって有利となる。
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