第90話
文字数 907文字
直前スタンバイをして居る出演者たちの顔は、どれも極度の緊張感と昂揚感に満ちている。
そして、その中に目を閉じてあらゆるプレッシャーと闘って居る野本樹里も居た。
そんな彼女の肩に岩村小百合が無言で手を置いてとても穏やかな口調で、「もし、倒れたら。その時は深大寺先生に授けて貰ったBパターンで行くからネ。私が駆け寄るから慌てないで、思い切って行こう」と微笑んだ。
この日の朝、深大寺創建は樹里が倒れた場合の対処方法の動きを急遽提案し指示していたのだ。間違っても山西健人扮する後藤又兵衛が千姫に駆け寄ることはなくなったのだった。
健人、残念。
そんな二人の様子を見守っていた順子は、そぉ~っと二人に近づくや二人の肩を抱き、「ようやく此処まで辿り着いたネ。ここまで来たら結果は考えずに、やり残すことなく思い切って楽しんでらっしゃい」と穏やかな口調で言った。そんな順子の言葉に樹里と小百合は無言で微笑み合う。その様子は苦楽を共にした者同士だからこそ共有出来るそんな瞬間だったのかもしれない。
そうこうしているうちにステージの準備が整い進行スタッフの動きが慌ただしくなった。
道明寺合戦まつりのメインプログラム「道明寺交響曲」がいよいよスタートする。
そして全ての人々のスイッチがONに入ったと同時に、
「さぁ行ってらっしゃい」と順子が声をかけ、無言で頷きながら顔を見合わせる樹里と小百合。健人は自身を鼓舞するかのように、「よっしゃ!行くでぇ」と声を挙げる。
そしてオープニングを飾る曲がスタートし、進行ディレクターのcueが出るや否や皆が一斉にステージへ・・。
順子はこの時、どの顔も何の迷いもない凛とした表情だと感じた。
そしてこの瞬間、樹里は不思議な感覚を体験して居たのだった。それは彼女の目に飛び込んでくる全ての動きがスローモーションになったのだった。彼女自身、こんな不思議な感覚は初めてだったが決して戸惑うことはなかった。寧ろ、それすら楽しい・・と感じられた。
様々な人々の想いを背負った道明寺交響曲が、遂に始まった。